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2010年02月 アーカイブ

2010年02月01日

20100201-1

彼は、魚の群を見つけた。地中海のエメラルドの海は、銀色に輝く魚たちを包み込んで、静かに揺れていた。ナポリからアマルフィに向かう船の中で、太陽の光り輝く空の下で緑色の海を眺めていた。

やがて彼はアマルフィの港に着いた。アマルフィの街は白く、切り立った崖に白い家がびっしりと並んでいた。13世紀から人々が営々と築き上げた街。一次は地中海世界を制覇した街。今ではナポリを訪れる観光客たちの、知る人ぞ知る美しいスポットになっていたが、世界遺産に登録されてからは見知らぬアジアの国々からの観光客も増えたらしい。しかし彼はそうした観光客ではない。彼はこの街で、鮨を握っているのだ。

20100201-2

自分が文学だと思うものを書けばいい。誰が賛成しようとしなかろうと。

異世界的な美しさを横紙を破るような強さで表現したい。

会話体。

20100201-3


「あの時あの人があなたに行ったことを、あなたは覚えている?」
「覚えているさ」
「なんていったの?」
「それは秘密だ」
「なぜ」
「あの人と約束したから」
「もういいじゃない」
「よくない」
「私にも言えないの?」
「ああ、悪いけど」
「本当に悪いわ。私、あなたに秘密なんてないのに。」
「すまない」
「それで片付けないでよ」
「いや、別に片付けてるわけじゃ」
「片付けてるわ。私よりも、死んだ人との約束の方が大事なの。」
「悪い。」
「もう死んでるのよ。」
「死んでるからもう二度と誰にもいえないのさ。」

 砂浜から波の音がした。電気がちかちかとしてやがて切れた。また停電だ。でも私たちのどちらも、動こうとしなかった。いつの間にか窓の外は少し明るくなっている。夜明けが近いのかもしれない。風が強い。風の音に混じって、波の音が聞こえた。

「春はあけぼの、ようよう白くなり行く山ぎわ」

 彼女がつぶやいた。

「少し明かりて」

 私は窓際の椅子に腰を下ろした。

「枕草子?」
「そう。窓の外の景色を見ていると、ときどき思いもかけない文章が頭に浮かぶの」
「俺もそんなことがときどきある。」
「あの人の言葉を教えて」
「言えないさ」

 私は少し苦しそうな顔をした。

「ごめんね。言えないといったら言えないのね。」
「そうだ。」

 彼女は下を向いた。やがて彼女は顔に両手を当てた。その両手から、溢れるような涙が滴り落ちた。

20100201-4


「白いガスが出ている」
「そんなこと、天気予報でいってたっけ?」
「天気予報なんて当てになるかよ。これだけ冷え込めばガスが出てもおかしくない。」
「でも、普段なら出ない。」
「今日はバカに湿度が高いんだ。それが急速に冷え込んだから、ガスが出たんだよ。」
「何も見えなくなってきた」
「説明的な台詞だな。小説では別に台詞で説明しなくてもいいんだ。ト書きがあるんだから」
「小説ではト書きといわないんだよ。地の文ていえばいい。」
「悪い。俺は演劇育ちなんだ。」
「でも演劇出で芥川賞とってる人何人もいるよね。」
「みんな小説家になって偉くなったと勘違いしてるから嫌だな。」
「本当は劇作家の方が偉いの?」
「偉いもへったくれもあるもんか。でもどんな田舎の青年でも、小説は読める。どんなに都会に住んでいても、高い金払わなきゃ芝居は見られないからな。知名度ではなかなか小説に敵わない。」
「むっちゃん頑張りなよ。小説家よりも有名な劇作家。」
「いやもうオレは小説家に転向する。」
「なんで?」
「言うな。俺は転んだんだ。転向の辞まで言わせるな。」
「なんか大時代的だな。」
「所詮芝居は前近代的なコミュニケーションなんだ。インターネット時代には消えていくしかない。」
「でもYouTubeで公開すればいいじゃん。」
「バカいうな。演劇の本旨は肉体がそこにあることなんだ。役者の肉体と観客の肉体のコミュニケーションが演劇の本質なんだ。YouTubeで何が伝わるって言うんだ。」
「そりゃまあそうかもしれないけど、声とか見た目とかは伝わるじゃん」
「でも大きさも伝わらない。息遣いも伝わらない。温度も伝わらない。そんなもの芝居じゃない」
「全く難しいこというねえ。」

20100201-5

考えているとあまりに無理のある設定や社会的に問題のある(政治的にあまりにも正しくないとか)話がぼんぼんでてきてさすがにそれはアップもできない。小説の断片ブログって存在自体が無理だろうか。

20100201-6

ガリンペイロたちは大きなリュックサックを背負ってアンデスの山道を登って行った。この村には黄金の伝説がある、と聞きつけてやってきたのだ。それが真実なのか、嘘なのか、誰も知らない。しかし一攫千金の夢を見た男たちは、すべてを投げ打ってその出所不明の伝説に賭ける。

20100201-7

彼らは15世紀の技術で印刷物を作っている。グーテンベルクが聖書を印刷したときの真摯さで。不思議な亀の甲文字で英語を綴っている。一つ一つの文字が呼吸をしている。

20010201-8

真犯人は誰か。それは誰にも分からない。本当は、真犯人などいないのだ。

20010201-9

彼はいいたいことがあるから、その人物を選んで小説を書いていた。述べて作らず、資料から読み取れることだけを頼りに、その人物を知ろうとしていた。今ではあまりいない、古いタイプの小説家だった。

20100201-10

私はその2月のめずらしく雪の降った日の朝、品川駅の新幹線ホームで初めて会う男を待っていた。彼はネットで知り合った友人で、言葉だけのやり取りながらお互いに話の分かるやつと認め合い、ぜひ一度あって話をしようとこの日この場所で待ち合わせをしていたのだ。しかしいつまで経っても彼は現れず、痺れを切らしているところにひとりの女が話しかけてきた。女は牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、おさげの髪を首筋で二つにまとめて結わえた、今どきいるのかと思うような若い女だった。

「あの」
「なんでしょう」
「誰か、お待ちですか」
「はい」
「杉山、昇平さん?」
「え?」
 どうしてぼくの名を、と言いかけたとき、彼女が言った。
「山田邦弘は来ません」
「え?」
 寝耳に水だ。
「あなたは、山田君の・・・」
 女はもじもじしている。
「妹さん・・・それとも奥さんですか?」
「ええと・・・」
 女は冷や汗をかき始めたようだった。私は不審に思って尋ねた。
「どういうご関係なんですか、あなたと山田君は。」
 女はまだもじもじしている。
「私は、彼と会うために九州から新幹線で出てきたんですよ。それを・・・」
「存じてます。」
「なぜあなたが?」
 女はついに、決心したようだった。
「山田邦弘はいません」
「は?」
「私が、山田邦弘を名乗って、書き込んでいたんです。」
「何ですって?」
 私は驚いた。山田は、そんじょそこらのネットおたくではない。該博な知識、緻密な立論、鋭い着眼点、そして筋の通った意見。私は彼の意見に耳を傾け、いつも感心していた。そして彼のフェミニズムに対する強い批判や、自衛隊の合憲化に対する熱意には、一目置くところがあったのだ。
「あなたが、山田君だったんですか?」
「はい、そうかもしれません。でもそうではないかもしれません。」
「どういうことです?」
「私は、パソコンに向かうと人が変わるんです。普段では思いつかないような意見がすらすらと出てくるんです。あなたの意見、私の書き込みを受けていつもすごい論理を展開して、常々感心してました。だから一度お会いしたくて、でも、すみません。こんなことになってしまって・・・」
 私は面食らったが、そんなことはどうでもいいと思った。
「いや、驚きましたが、そんなことはどうだって言い。まさか女性だとは思いませんでしたが、お会いできて嬉しいです。」
 私は手を差し出した。彼女は控えめに手を出し、控えめに手を握った。
「せっかくですから、どこかでお話しましょう。どこかご存知ですか。」
「私、いつも引きこもっているので、そういうところは全然知らないんです。」
 私は辺りを見回した。駅のそばに、大きなホテルが建っているのが目には行った。
「それでは、あのホテルのラウンジに行きましょう。確か一度、出張できたことがあります。きれいな広い、余り込んでいないラウンジでした。ゆっくりお話が出来るでしょう。」
 彼女は真っ赤になって頷いた。

2010年02月02日

20100202-1

パンケーキを焼くパン皿の上で踊る親指姫。指をくわえて見つめる鯛焼き姫。

20100202-2

そのピルトダウン原人は右から見ると男、左から見ると女だった。正面から見ると正中線できれいに男女に分かれていた。そこにやってきた北京原人は、自分の首をカンテラのように掲げていた。ダンテの『神曲』地獄篇を描いたギュスターブ・ドレの鬼の絵のようだった。地獄とは、文字通り体の切り刻まれるところなのだ。一人の体が切り刻まれ、二人の体が接合され、合わぬ二人が苦しまなければならない。頭のない肉体の群れが彷徨っている。彼らは自分の顔を知らないのに、それに恋している。恋焦がれている。ある者は、体から感情という感情が湧きあがり、肉体を突き破って出現する。怒りや、悲しみや、不正な快楽や、妬みや蔑みといった感情が、皮膚を突き破って虚空に飛び出していく。穴の開いた肉体からは血やその他のものが吹き出、彼はのた打ち回って苦しむが、けして死ぬことはない。山羊の頭を持った男、猿の肉体を持った男。卵の殻の肉体を持った男。全ての想像力は地獄を想起する。ダンテも、ボッシュも。

20100202-3

その人は、笑顔の中に恥じらいのある人だった。その少女のような素朴さが、彼の心を強く引いた。彼女と何度か会うことになるが、あるとき大きな神社にお参りした時の、彼女の表情にはっとさせられた。型どおり柏手を打ち、手を合わせて、「ご飯どこに行く?」と彼が笑顔で振り向いたとき、彼女は真剣な面持ちで目をつぶり、手を合わせて上体を傾けていた。その真剣さは、みる人をはっとさせるものがあった。この人は、神様を畏れている。神聖なすがすがしさを、体いっぱいに感じている。そう思うと、彼は自分も身の引き締まるような思いがした。またあるときは、約束の時間に10分も遅れてきた。いつも5分前には来るのにと、彼が不思議に思っていると、彼女は大慌てで走ってきて手を合わせた。「ごめんなさい」「いいけど。珍しいね、君が遅れるなんて。」「少し早めに来てたんだけど、おばあさんがとても大きな荷物を持っていて、とても重そうだったの。それで私、それを担いであげて、おばあさんの家まで届けてあげたの。そうしたらこんなに遅くなってしまって。」「いったいどこに?」彼女が言った住所を聞いて私は驚いてしまった。そんなところまで往復したら30分はかかるじゃないか。「いったい何時に来てたの?」彼女はいつものように恥ずかしそうな顔をして言った。「少し前よ、気にしないで。」ずっと後になってそのときのことを聞くと、実は彼女はいつも30分前には待ち合わせ場所にきていたのだが、女性があまり早めに行くのは物欲しげではしたないとおばあさんに諭され、いつも私が来てから今来たかのように現れていたのだとわかった。


2010年02月03日

20100203-1

春人は亜美と碁を打っていた。亜美は有段者で素人としてはかなりの腕前なのだが、春人はほとんど碁を知らない。子どもの頃、父と打ったことがあるくらいだ。白黒交互に打つ、陣地を囲って広い方が勝ち、二つ目があったら生き、できなければ死にで相手に取られてしまう、などということを子どもの頃からの知識で知っているだけだった。

当然、定石なども全然分らない。亜美が着実に勢力範囲を広げているのに比べ、春人の置く石は支離滅裂だ。それでも亜美に井目(黒石9個)置かせてもらっているので、少しは取れる。

何にもない、だだっ広い空間に、自分の黒の石が9つ、最初から置いてあるというのはそれだけで安心感がある。宇宙に九つの星が浮かんでいるようなものだ。それを頼りに自分の身体を伸ばして行く。場所を囲うというよりも、宇宙に頼りなく浮かんだ自分の生命を何とか生かし、二つの目をもたせて生き残らせ、相手よりもより多くの生命を輝かせる、以後というのはそういうゲームだと思った。

20100203-2

また襲ってくる。何かが襲ってくる。わけのわからない不安が襲ってくる。空と雲の隙間から、光が降ってくる。私は光と不安との間で震えている。凍える胸。渦巻く不安。動悸。ため息。倦怠感。無常感。光と、闇ともいえない灰色の無機質の闇。筋が何本も通っている。雲を見上げて光を浴びているのをみる。光の色が、昨日と違う。いやに鮮やかな色だ。

光のない冷たい海の底から、私はようやく立ち上がり、波打ち際に立つ。不安は、もう小さな寄せる波のように、潮騒の音とともに形を失っていく。形のない不安。雲のように湧き上がったり、俄か雨のように私を襲ったり。形のない不安。かたつむりのように、知らないうちにすぐ側に忍び寄っていたり、電信柱のトランスのスパークのように、誰も聞いていないのにすごい光と音を放っていたりする。

不安とは多分、物理的なものなのだ。何かの素粒子の集まったもの。何かのエネルギーが場となったもの。知らずに歩いているとその場に捉えられ、急に不安に苛まれる。また、場の方がいつでも移動している。寝ているうちに場に覆われ、急に不安に苛まれるのだ。

20100203-3

土砂降りの雨の中で、泣いている女の子がいる。空の悲しみの蓋が閉まらずに、いつまでも降り続けている。女の子は泣きじゃくりながら、裸足でアスファルトを歩いている。通り過ぎていく車のヘッドライト。突然聞こえては消えていくカーステレオ。アスファルトに溜まった水。激しい雨は、地下鉄に流れ込んでいく。女の子は、その階段を下りていく。激流の渓流を静かに下りていく山の神の使いの化身のように。女の子はいつまでも泣いている。物語の蓋は、開いたままになっている。

20100203-4

「死ぬってどんなこと?」
「死んだことがないから分らない」
「嘘」
「ああ、実は一度だけ」
「死んだことあるの?」
「死にそうになったことは」
「何だつまらない」
「死んだら驚いた」
「死んだことあるの?」
「って丹波哲郎が言った」
「本当に死んじゃったわね」
「人はいつかは死ぬさ。死ななかった人は今まで誰もいない」
「まだ死んでない人はまだ死んでないわ」
「でもいつかは死ぬ。これは確率100パーセントの銀行レースだ」
「銀行レースだって外れることあるもの。まだ死んでない人の中に、もう死なない人もいるかもしれない。」
「確かにね。でも200年たったら多分今生きてる人はみんな死んでるよ。」
「200年後じゃ確かめようがないわね」
「そう。確かに、死ななくてもみんな死んだと思っているのかもしれない。昔木花咲耶姫と岩長姫がニニギノミコトに嫁入りしようとしたとき、咲耶姫は妻となったけど岩長姫は返された。それから人は、岩のように長い寿命を得ることができなくなったという。だから今でも、岩長姫の一族はずっと生きているのかもしれない、人知れず。」
「でもその人たちは人間かしら」
「われわれが知っているような人間とは違うものだろうね」
「いつまでも生き続けるってどんな気持ちかしら」
「しかし人が美しいのは、やがて滅びていくからだ。いつまでも滅びないものは崇高さはあるが、人と同じ意味での美しさはない。」
「アボリジニやネイティブアメリカンの化粧には、岩と同化して岩の命を得ようとする文様があるわね」
「花の美しさはやがて失われる。だから、花よりも岩がいいと思った人たちがいたとしてもおかしくはない。だけど、花のように美しかろうとなかろうと、岩と同じだけの命を得た人は、他の人間に知られている限りは一人もいないんだ」
「中国には800年生きた人がいるというし、アダムも1000歳まで生きたわ。」
「そのころの人間は神に近いと思われていたのだろう。武内宿禰とかもそうだ。欠史八代の天皇はみな数百年の寿命だったとされている。」
「本当に生きたのかしら。」
「難しい問題だね。ただ観念を反映しているだけなのか、何らかの事実を反映しているのか」
「事実を反映していると思ったほうが面白いわ」
「でもそこから、事実と妄想の混同が始まる」
 彼女はちょっとしょげたようだった。
「そうね、私の妄想が始まったのも、そんな話からだったわ。」

20100203-5

私は、その川沿いの落葉松の並木道を散歩するのを日課にしていた。小さな川に沿って、痩せた田圃が広がる高原の谷沿いの道に、ところどころ生えている落葉松の林は、自然の散歩道の風情を見せていた。秋が深まるにつれて木々は黄葉し、茶色になって、やがてすっかり裸の潔い清々しい林になる。木々の隙間から青空が見えて、その青空と雲と梢の幾何学模様が生み出す不思議な幻想が、私をどこかファンタジーの世界に誘う。私はいつも空想しながらこの道を歩く。ヒースの痩せた草原が北イングランドの小説の舞台なら、この痩せた落葉松の林は、この国の高原の格好な小説の舞台になるはずだ。風景はなぜか、さびしい方が小説の舞台になりやすい。自然の厳しさが、小説に緊張感を与えるのだろう。

私は川に降りてみようとしたが、川原には蒲の枯草が水に浸かって足場をなくしていて、私はあきらめて谷沿いの道に戻った。向うから、短い外套を来た紳士が煙草を吸いながらうつむいてやってくる。S先生だ。何か考えごとをしている。それを停めていいものかどうか迷ったが、私は思い切って声をかけた。
「S先生」
 先生は顔を上げて私の顔をまじまじと見た。
「ああ、誰かと思ったら中尾君か。いや、今すっかり考え事をしていてね。あれ、ここはどこだろう?川沿いの畦道を歩いていたらいつのまにか来たこともないところまで来てしまったぞ。」
「ご案内しましょうか」
「そうか、ありがとう。私はもともとこのあたりは不案内でな。なのにこんなところまできてしまってどうしたらいいかと思っていたんだ。」
「ここは、考えごとをするにはいい道ですね。」
「そうだな」
 先生ははじめて気がついたようにあたりを眺めた。
「なるほど、いい具合に落葉松が生えていて、景色にアクセントをつけている。薄い日の陰も微妙に強さが変わって、気がつかないうちに考え方に微妙な強弱をつけていたようだ。確かに考えるのにはいい道のようだ。」
「ギリシャには逍遥学派というのがあったそうですが、先生はまさにその後継者ですね。」
「アリストテレスか。カントも散歩好きだった。カリーニングラードにいったとき、カントの歩いた道を私も歩いてみたことがある。すっかり風景は変わっていたが、カントの気持ちは少しわかる気がした。」
「カントもそうだったそうですが、先生もお喋りが好きですね。」
「そうだな。散歩するのと、対話するのが考えを進ませるのだ。対話で考えを進めるのはソクラテス以来の伝統だな。私は家で一人でじっとしていても大して考えは進まないが、こうして散歩しながら君のような人と話をしていると、考え方が化学反応をおこしていくのがよく分る。私たちはソクラテスの後継者でもあり、アリストテレスの後継者でもあるわけだ。」
「散歩しながらおしゃべりしているだけなのに、すごいことになってますね。」
「真実は時としてこういう軽口の中から生まれるものだからな。」

2010年02月04日

20100204-1

「あなたはどうお考えなの、マルコ・マルコビッチ?」
「私の考えることはいつも同じですよ、アリーシャ・ニコライエブナ。」
「ということは、お父さまは猟銃を持って出かけたということなのね。」
「そうです。ニコライ・アレクサンドロビッチは猟銃を持ち、アルナとアレナの2匹のイングリッシュポインターを従えて家を出た。」
「狩場までは車で30分はかかるわ。」
「そう。だからバギー車をどこに停めたのか、それが謎です。」
「バギー車のわだちは、草原に入ったところで突然見えなくなっている。」
「もちろん、車がなぎ倒した跡は、途中までは残っていました。しかし、ある場所で突然その跡が消えている。まるでその場で天上に連れて行かれてしまったかのように。」
「未確認飛行物体に連れ去られた、というものもいるわ。あるいは突如神に召されたとか」
「そんなことがあるはずがありません。どこかにトリックがあるはずです。」
でも、車が草原の中で突然消えたのでなければ、車はそこから逆戻りしたとしか考えられない。」
「そうですね。そして逆戻りした跡は、わだちが残っている部分まで戻っても何も見つからない。」

20100204-2

幻影を追って走りつづけた。夜中に見る夢。真昼に見る夢。私の頭の中の、半分を幻影が占めている。実際に目に見えるもの以外にも、見えるものはこんなにたくさんあるじゃないか。実際に聞こえるもののほかにも、聞こえる音はこんなにたくさんあるじゃないか。新しいもの、この世に存在しないものをみるというのはそういうことだ。そういうものがこの世に現わすには、そういうものが見えなければならない。頭の半分の、現実には存在しないものを形にしたい、そう思って私はいつも絵を書いたり、音楽を書いたりしつづけるのだが、頭の中に実際にあるものとは似ても似つかないものしか生まれないのは残念なことだ。イデアの世界が神々しい神の神殿なら、私の作品はみじめな掘っ立て小屋のようなものだ。あんなに鮮やかに全ては輝いているのに、どんなにそれを作り出そうとしてもみじめな贋物が生み出されるに過ぎない。

私は手を止めて考える。私に何が出来るのかと。熱に浮かされたようにビジョンを語りつづけ、人に変に思われても自分の頭の中にあるものを現実の生命を与えたい。私はマッドサイエンティストのように命ある人間を作ろうとするが、できるのは奇妙なできそこないばかりだ。

加藤唐九郎が失敗作を叩き割るように、頭の中で私は出来たもの全てを叩き割る。私は叩き割った作品の山の上で、ボタ山の月を見る。月に吠える。たった一つ本物を作り出せたら。たった一つ、頭の中にある幻影を現実のものにできたら。

2010年02月05日

20100205-1

宮廷音楽家エステルハージは初めてのミサ曲を書いていた。神に捧げるこの曲を、彼は祈りながら書き、天恵を感じては楽譜に一つ一つフレーズをしたためていった。彼の前には田園の風景が広がる、彼の部屋はシンプルな漆喰の壁で覆われているだけなのだが。彼は音符で見たものを封じ込める。彼の曲は、聞く人にもその風景を思い起こさせる。何より大事なのは、彼の曲を聞く人たちは自然に神の恩寵を感じ、この風景の一つ一つがすべて神によってわれわれに与えられたものであるということを感じてその感動に涙してしまうのだ。彼の曲は曲というより一つの奇跡だった。

20100205-2

大きな翼を持った不思議な鳩があなたのあとを追いかけている。あなたは自分の二つの翼で大きな空にはばたいている。イカロスのように、あなたは太陽にひかれて中天に上っていく。大きな翼を持った不思議な鳩は、あなたのあとを追いかけて中天に上っていく。地上から見れば、まるで二人の不思議な天使が大空の真ん中で戯れているように見えるだろう。あなたは空中で立ち止まり、不思議な鳩を見つめる。不思議な鳩はその場で大きくはばたいて静止する。あなたは思い切って、不思議な鳩の背中に乗る。不思議な鳩は、待ってましたとばかりに大きくはばたき、天へ、天へとのぼっていく。

星の瞬く時間になっても、あなたたちは地上に降りてこない。星の間を、あなたたちはゆっくりと挨拶して回る。大きな翼を持った不思議な鳩は、天上界でその正体をあらわし、大天使の一人としてあなたを星の貴公子たちに紹介して回る。あなたはいちいち帽子を取って挨拶し、この一夜の素敵なセレナーデをどうぞ楽しませてくださいと懇願する。貴公子たちは気楽にその申し出に応じ、不思議な楽器を持って天上のセレナーデをあなたに聞かせてくれる。

やがて朝露の中であなたは目を覚ます。まるで天上のような草原の朝。見上げると、大きな翼を持った不思議な鳩が、天高く舞い上がり、この地上の果ての緑の大山脈の向うへと消えていくのを見るのだった。

2010年02月06日

20100206-1

激しい風の中で男はただひたすらに歩きつづけていた。心の中は怒りに燃えていた。持ち上げるだけ持ち上げ、利用するだけ利用して、都合が悪くなると潮が引くように周りからいなくなり、手の平を返したように冷たいあしらいをするようになった者たちに。

裏切られた、ということに気がつかなかった自分も悪いのだ、と思う。ただ純粋に、彼らの言葉を信じてしまった。心の底から話せば理解しあえると、自分は思い込んでいた。誰もがそう思っているわけではないのだということに気がつかなかったのだ。

「ラン!」不意に男は声を上げた。あの記憶。あの暖炉のある家の記憶。その家で男はランに、その家の女主人であり二人の子どもを持つ寡婦であり、てきぱきと家事をこなし召使たちにきびきびと指示を下すランに、心づくしの饗応を受けた。家庭の暖かみを知らない男は、そこに大きな安らぎを覚えていた。いつしか男とランは深い中になった。しかし、ある日突然、ランとその一家は忽然と姿を消したのだ。ラン!お前も私を裏切ったのか。そうでなければ何故。

2010年02月07日

20100207-1

ショパンの小説を読みたい。ショパンの伝記を読みたいわけではない。私はショパンの音楽を聞きたいのであってショパンの生涯を知りたいのではない。だったらショパンのピアノを聞け、とあなたはいうだろう。全く持ってその通り。コンサートホールに行くか、それがかなわなければCDを買えばいい。まして私は無機質なデジタルの音でない古いレコードプレーヤーも、さらに真実の音を出すグラモフォンの蓄音機さえ持っている。小林秀雄のように、朝から晩までその音に沈潜し続けることだってできるのだ。しかし、それでは足りないのだ。ビートルズのマニアが呆れるほど飽きもせず彼らの楽曲について語り続けるように、私はショパンの声が聞きたいのだ。ショパンが自分の楽曲一つ一つについて倦むことなく語り続けるのを聞きたいのだ。誰もそうした小説を書かないのならば、仕方がない、自分で書くしかない。書きたいことは山ほどある。まずはプレリュード、作品28。

20100207-2

小学生のころから憧れていたのは、外国航路の船員だった。波止場に泊まる豪華客船の船員の白い制服。12階建てのビルにも匹敵する巨大な汽船の中で働くスマートな青年たち。一度だけ連れて行ってもらった港で見たあの鮮烈さ。いくつになっても忘れられなかった。

しかし私が大人になったとき、外国航路は既に廃止されていた。港に係留されていたのは、在りし日のあの客船の、現役を引退した博物館としての姿だった。私は一度だけ入場券を買ったのだが、結局入り口まで行って引き返してしまった。私はわたしの思い出を陵辱することに耐えられなかったのだ。

20100207-3

知らない間に生えてくる角。気がつくと頭頂部の少し後、つむじから4センチくらい右左に牛のような角が生えてくる。三国志の武将の兜ではあるまいし、そんなものが生えたら邪魔でしょうがない。第一かっこ悪いではないか。だから毎日、私は角を切っているのだが、これがまたなぜかいつの間にか生えて来るのだ。まさか角隠しをかぶるわけにもいくまい、花嫁でもあるまいし。私は帽子を被る習慣はないからいいけれども、野球の選手はさぞかし邪魔だろう。ラグビーの選手なら便利かもしれないが、サッカーの選手だとボールをパンクさせるおそれがある。これは反則にならないのだろうか。角の先をやすりで磨いてボールが刺さらないようにすれば大丈夫だろうか。まだFIFAの公式見解は出ていないようだが。

角は二本、毎日体調によって長さが違う。どういうわけか、体調が悪いと右側が長くなるのだ。どうやら私はそういう体質らしい。右脳が発達している人は右の角が長くなるという説があるが、私は怪しいと思っている。しかし私は一度だけみたことがあるのだが、右側が牛の角なのに左側は鹿のように枝分かれしている角を持っている人がいた。あれはどうも重そうで嫌だ。まあ牛の角であるだけましなのかもしれない。もっとも私も平日は丁寧に角を切るけれども、休日は家でごろごろしていることが多いので、必ずしもまめに角を切らない日もある。そうすると奥さんがイヤな顔をするのだが、いいではないか、休みの日くらい。しかしそんなことを言うと奥さんにも角が生えてくるので、適当に切っておく。

髪の毛が湿度計に使えることはよく知られているが、角だってなかなか便利だ。私は自分の角でもう24本角笛を作ったのだが、ほるんほるんと不思議な音がして好評だ。カスピアン王子も本当は自分の角を切ってホルンを作ったのかもしれない。角盃もなかなか洒落ている。銀で細工を施すと自分の頭から生えたものだとは思えないほどだ。そういう細工を施された角盃を見ると、誇らしくさえ思えてくる。奥さんもいつもは口やかましく角を切れというのだが、マントルピースの上に置かれた私の角盃を、惚れ惚れした目で見ているのを実は盗み見したことがあるのだ。何だ、自分だって本当はそうだったのか。うしし、と思う瞬間である。

私の上司は角など生えていないが、一度だけ休日にばったり本屋であったときには、立派な山羊の角が生えていた。隣にいた子どもたちには羊の角がはえていたので不思議に思って聞いて見ると、親を亡くした親戚の子を引き取って養子にしたのだという。上司は立派な人だと思っていたが、そんな見上げた男だとは思わなかった。なるほど、山羊の角が生えるだけのことはある。男らしい男である。

2010年02月08日

20100208-1 「東京カフェ案内」

あっという間にお昼になった。さて今日は何を食べに行こう。私の密かな楽しみは、オフィスのデスクの引き出しに入れてある『東京カフェ案内』に載っているカフェを梯子することなのだ。もちろん昼休みだからそんなに遠いところまで出かけるわけにはいかない。たまには部下たちと食べなければならないときもある。女子社員はそういう場所に連れて行ってもいいが、男どもはそんなところに連れて行っても感心せず、もっと安くて量のあるところに行きたかったと不満顔になるので、安いが上手い蕎麦屋とかてんぷら屋に連れて行くことになる。まあそれもいいのだが、『カフェ案内』に掲載されているカフェももうあらかた回り終わり、あとひとつだけになったので、今日はぜひともそこに行きたいと思っていたのだ。やや離れた場所にあるのがなんだが、午後はそちらの方面でアポイントメントもあるのでちょうどいい。そちらに出かけるのも私一人なので好都合だ。仕事を口実に正午少し前にオフィスを出、地下鉄にのってその店に向かった。

下町の風情を残したその街に、最近はアートが流行っているらしく、コンテンポラリの美術館が出来たり、思いもかけないあっさりとしたお洒落なカフェが二つ三つできている。そのうちのひとつが今日のターゲットだ。こじんまりした店なので早めに行かないと入れないかもしれないと思ったが、案の定既にテーブルは満員で、店の中で待つことになった。

待つ椅子に座って鞄から雑誌を取り出して読み始める。あの作家が新作を出したのか。ああまり好きな作家ではないのだが、題材が面白そうだ。さて買う価値はあるだろうかと首をひねる。帰りに書店によって立ち読みして見るか。そう思って記事に丸印をつけ、鞄に仕舞いこむと、窓際の席にひとりで座っている若い女性がふと目に入った。

どこかで見たような気が、と思って考えてみると、体調不良ということで休職している平野笑美子であることに気がついた。入社の成績は大変優秀で将来を嘱望されていたのだが、入社二年目の去年、何があったのかノイローゼという診断書が出され、ここ半年ほど会社に出てこない。私の会社はおおらかなところがあってそれでも辞めろとは言わないのだが、その恵美子とこんなところで会うとは思わなかった。私は席を立ち、笑美子の席へと近づいた。

「ここに座ってもいいかな」
 雑誌に目を落としていた笑美子はいぶかしげに私を見、気がついて破顔一笑した。
「山下さん。こんなところにどうして?」
「いや、こちらの方で仕事があったのでね。少し早めに来てここでランチでもと思ったのさ。」
「あいかわらずですね。」
 笑美子は嬉しそうに笑う。そういえば、こういうカフェにいちばん連れ出したのは、この平野笑美子だった。女子社員でもそういうときに反応のいいのもいればもうひとつのもいる。しかし笑美子はいつも楽しげで、こういうカフェの雰囲気を心から楽しんでいるようだった。
「病気はもういいのかい。」
「はい、おかげさまで。普段はだいぶ気分も安定しています。」
「そうでないときもあるの?」
「そうですね。まだちょっとバランスを崩すと動けなくなったりすることもあるんですけど、だいぶよくなってきました。お医者さんに、積極的に外出するといいよといわれたんで、それなら山下さんに教えられた気持ちのよいカフェにでも出かけてみようと思って、『東京カフェ案内』を買って来てみたんです。ちょうど私の家もすぐ近くですし。」
「そうか、それはよかった。」
「でもすみません。」
 笑美子は急に済まなそうな顔になって言った。
「実は今日は人と待ち合わせているんです。もうすぐ来ることになっているんですけど。」
 なるほど、笑美子だって若い女性だ。待ち合わせる相手もいるだろう。そんなところに居合わせるのも野暮な話だ。ここは退散するべきだろう。
「そうか、それは悪かった。じゃあぼくはこの店はまたの機会にするよ。どうぞごゆっくり。」
 そう言って立ち上がると笑美子は済まなそうに、
「すみません。でも山下さん、今度またこのカフェで待ち合わせしませんか。お時間のあるときにゆっくりお話したいと思うんです。このカフェ、とても気持ちいいですよ。」
「そうか、ありがとう。そうだね。またこの近所にくる予定が出来たら連絡するよ。メアドは変えてない?」
「はい。ぜひ連絡してくださいね。」
「わかった。またね。」
 私は店の人に断りを入れて外に出た。春の風が吹いていた。

2010年02月09日

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私はのんびりと足湯に使っていたが、だんだん焦り始めた。のんびりすればのんびりするほど、心の中に焦りが生じる。それは精神的なものだろうか。あるいは習慣的なものなのか。のんびりの海岸の波打ち際に、突然焦りの大波がやってくる。ざっぱああああんと自分がさらわれていく。さらわれていかなくても、大波をかぶってびしょ濡れだ。私はそんなことを考えながら、じっくりと汗をかいていた。足湯からでたらさっぱりして、焦りのことはどうでもよくなった。

2010年02月10日

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白い衣裳を着て水辺にたたずむ貴族の娘。湖は澄み渡っていて、波一つない。山の森が湖面に鏡のように映っている。空も、湖の中にある。

娘は、泊めてあった小さな舟を湖に押し出し、それに乗った。櫨が一つついた小さな舟を、娘は器用に操って漕ぎ出していく。してみると、彼女は本当は貴族の娘ではないのかもしれない。櫨を操れる貴族の娘、そのようなものがこの世に存在するのだろうか。

娘は、さらに貴族らしくない振る舞いに及ぶ。十分に岸から離れた湖の中心へ来ると、そこはもう岸からは誰にも見えない。娘は着ていた衣裳を脱ぐと、白い衣裳よりもさらに白い肌を見せて、湖へと飛び込んだ。と、そこに白いイルカのような海獣が現れ、娘と戯れ始めた。娘とイルカはまるで旧知の仲のようにお互いを懐かしがり、愛撫しあい、戯れ、ともに泳いだ。やがて急にイルカは水上に飛び跳ねたかと思うと湖の奥深くに潜り、それっきり浮上しなかった。娘は舟に上がり、その金色と黒の混じった髪を結わえ、しばらく風の中に身を任せた。やがて雲の隙間から太陽が顔をのぞかせると、娘はすっかり乾いた体に白いドレスをまとい、また器用に櫨を操って岸へと戻って行った。誰も彼女の行動を見たものはいなかった。

2010年02月11日

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雨の休日。冬の空。気温は上がらない。かといって雪になりそうなわけでもない。肌寒い日。いっぱいの紅茶に、かすかに暖を取る。

屋根を跳び跳ねる雨の音。アスファルトを叩く雨の音。水たまりに飛び込む雨の音。私の傘も濡れている。

窓の外の、明度の低い世界を眺める。部屋の中の凍えた雰囲気を眺める。ストーブだけが熱い。頑張っていても、その熱は空気の中の小人たちが全て奪っていくかのように、私は暖まらない。

2010年02月12日

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想像力があまり働かないのは、寒いせいだろうか、それとも仕事が忙しくて余裕がないからだろうか。外は一面の銀世界。車を出すのにも長時間暖機して、車庫の前の雪をかいてからでないと外に出られない。こんな日は出かけるのが億劫になり、家の中に引きこもってしまう。一度上がった雪が、また降ってきた。朝方よりも昼の方が気温が低い。雪雲は遠ざかったといっていたが、新たなものが発生したのかもしれない。想像力が現実に張り付いてしまっている。本を読んで、別の世界を探訪してみよう。20120212

2010年02月13日

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人が死ぬということはどうしようもないことで、人はいつかは死ぬ。それに対して人がどう思おうと、それは人の定められたことだ。死は生の終わりであるけれども、それと同時に永遠が始まる。有限の生の向うに無窮の死の世界があり、そこでは消えることのないともし火が燃えている。人の限られた生が本物なのではなく、そこで燃えている、その永遠の殿堂で燃えている灯火こそが本物なのかもしれないと思う。

たとえばそれはショパンの楽曲だ。ショパンの生命は終わっても、ショパンの命の灯である楽曲はいつまでも演奏しつづけられ、消えることはない。多くの人の生命は忘却され、沈黙のうちに顧みられなくなっていくけれども、本当はその灯火は魂の殿堂でいつまでも燃えつづけている。誰にも認められないことなんて本当はない。私たちはこの生の間に、生命の灯火を必死でかき立て、燃やそうとしている。死ねばその火はもう、永遠に燃えつづける。死は休息ではなく、永遠の律動の始まりなのだ。生きている間は永久機関はない。そして死の世界では、永久機関でないものはない。

かつん、かつん、とその殿堂を歩き回る靴の音がする。手に大きなたいまつを掲げ、多くの人を導いているたくましい男。私は小さなろうそくを持って、小さなカンテラを提げたあなたと一緒に殿堂を歩く。かつん、かつん。思ったより多くの人とすれ違うが、靴音は私の音しかしない。

やがて「真実の口」のようなレリーフが施された大きな円い扉が開く。日本銀行本店地下の大金庫の入り口のような、大きな扉である。その先にまばゆいばかりの黄金の山があるかと思いきや、緑の草原が広がっている。いのちの火の燃える部屋の向うは、青空の下の緑の草原。キリンと狸が同居している。ペガサスが滑空して跳び上がって行く。私の手にはいつのまにか一本のロープがあり、私はその投げ縄を大きな木に向かって投げる。大きな枝にひっかかると、私はその縄を引っ張る。引っ張った反動で、私は空に飛ぶ。

2010年02月14日

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「私は魔法が使えるのよ」、と彼女が言う。
「何の魔法?」
「バレンタインデイ・マジックよ。」
「何だそれ。」
「チョコレートに愛を込めて贈るの。」
「おいおい本気か?」
「失礼しちゃうわね。せっかく作ってあげたのに。」
「ありがとう。」
「気のない返事ね。」
「なんていえばいいの?」
「そのくらい考えなさいよ。私がせっかく早起きして作ったんだから。」
「へー、早起き。ミサが早起きなんてそりゃすごい。ありがたやありがたや。」
「ふざけないでよ。」
「どれどれどんなマジックが?」
「愛情がたっぷり入ってるのよ。」
「こりゃ苦い。」
「そんなことないわ。」
「ちょっと食べてみなよ」
「……あれ?」
「苦いだろ?」
「おかしいなあ…あ。砂糖入れるの忘れた。」
「なんだそれ。」
「だって、手作りチョコって普通、板チョコ買ってきて溶かして型に入れるだけなのよ。そんなの手作りじゃないでしょ。だからちゃんと材料から作ったんだけど…」
「砂糖を入れ忘れた。」
「うーん。失敗は成功の元ね。」
「しかしこの砂糖の入ってないチョコはどうすれば…」
「作り直すわね。回収しまーす。」
「バレンタインデイ・マジックはどこに行ったの?」
「うるさいわね。」
「……」


2010年02月16日

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私は車のアクセルを踏んだ。国道が街を離れると、スピードが上がる。何もない湖畔の道をスピードを上げて走る。やがて峠道に差し掛かる。曲がりくねった道でブレーキとアクセルを交互に踏み、ギアを入れ替えながら最高地点を越える。ラジオの入り具合が悪くなり、周波数を変える。太平洋斜面から日本海斜面に移ったのだ。

黄色いバラの花束が、ひとつ欲しい。

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プリンがふるえている。ふるふるふるえている。ひとくち口に含む。ふるふるふるえている。雨の日曜日。出かける当てもない。車が水をはねる音がする。暗い部屋の中で、裸電球の下でふるふるふるえるプリンを食べている。

2010年02月18日

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白いつぼがほしいと思い、粘土からこね始めた。

2010年02月22日

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桂一が目を覚ましたとき、千賀子はもう台所に立って何やら朝ごはんの菜を刻んでいた。桂一は裸の上半身を起こし、枕元の煙草を拾って一本抜き出し、マッチを擦って火をつけて一息ゆっくりと息を吸い込んでから、細く長く煙を吐いた。桂一は煙草を黒い灰皿の上に置くと、昨夜は枕元に乱雑に脱いだ下着が丁寧に畳んであるのを拾い上げて履き、脇の下の破れたTシャツを着て、青い大柄なストライプのシャツを着ようとすると、シャツは前ボタンが全部留められてあった。桂一は思わず苦笑いし、上のボタンを二つ三つはずすとセーターを着るように頭からシャツをからだに通し、腕と胸元のボタンを留めた。ズボンはまるでアイロンをかけたように――いや、おそらくは本当にアイロンをかけたのだ、折り目がきちんと通っていて、まるでクリーニング屋から帰ってきたばかりのようだと思った。靴下は、青いウールの新品のものが置いてあった。桂一は座ったままそれを履くと、立ち上がってチャックを上げてベルトを締め、部屋のすぐ隣の台所に行った。

千賀子はすぐに気配を察し、
「あ、桂ちゃん、おはよう。よく寝てたね。」
と鍋の蓋を上げながら言った。
「千賀ちゃんはずいぶん早く起きたの」
桂一が落ちてきた寝癖の髪を気にしながら言うと、千賀子は味噌を掬ってみそこしに入れながら
「うーん、わたし朝は早く目が覚めちゃうからね。買い物に行ったりアイロンかけたりしてたんだけど桂ちゃん全然目を覚まさないから。」
千賀子はおかしそうに笑うと、小さな皿に味噌汁を少しとって味見をして、小さく頷いた。
 千賀子は普段から、着物を着て過ごしている。家にいるときはいつもそうだ。出かけるときは洋服のこともあるが、着物の方が楽なのだという。桂一はいつも感心して千賀子の動きを見ているのだが、千賀子はいつも自然に、まるで最初から着物を着てすごしてきたかのように振舞うのだった。
 桂一と千賀子は、物心ついたときからの付き合いだ。最初に会ったときのことなど覚えていないが、二歳のときに千賀子の家が桂一の家の隣に引っ越してきて以来、保育園からずっと同じで、高校のときに桂一は男子校へ、千賀子が女子高へ行っていたけれども、大学もまた同じ国立に通っていて、もう何十年一緒にいるのか分からないほどだった。

 子供のころの千賀子は、今とは違って洋服ばかり着ていた。千賀子の上品なおばあさんは、桂一の記憶の中ではいつも確かに和服を着ていた。今千賀子が着ている着物も、おばあさんからもらったものがたくさんあると聞いたことがある。千賀子が着物を着始めたのはいつ頃だったか、そのおばあさんが大学生のときに倒れ、千賀子が病院に通い始めたころだったかもしれない。おばあちゃんはとりわけ、千賀子が着物を着るのを喜んだ。病院へ行くといっても、家族が出来ることはそうあるわけではない。でも千賀子はかいがいしく祖母の世話をして、おばあちゃんはいつもそれを目を細めて喜んでいた。

 おばあちゃんは退院したもののめっきり老け込んで、千賀子はかいがいしく世話をした。桂一の母もそうだったが、千賀子の母も働いていたので、千賀子は大学に通っているころから祖母の世話のために家にいる時間が長くなった。千賀子は着物で祖母の世話をし、着物での働き方を祖母から教わって、何の不自由もなく家事をこなせるようになった。

 祖母が亡くなったころ、千賀子の父と母の不仲は決定的になり、祖母の葬式を出した後、母は家を出た。妹のさわ子は母と一緒に京都へ行き、千賀子は父と一緒にこの家に残った。父もやがて家に帰ってこない日が多くなり、あるときを境に全く帰ってこなくなってしまった。人の噂では札幌で見かけたというが、定かではない。そんな家族のことを千賀子はどう思っているのか分からなかったが、千賀子は毎朝祖母の仏壇に手を合わせ、朝の家事を済ませると洋服に着替えて会社に通っていた。

 桂一は大学を卒業したあと、司法試験の勉強を二年ほどしたがものにならず、アルバイトでコンピューター関係の会社にもぐりこみ、仕事を覚えると近くに別のマンションを借りてその会社から仕事を回してもらっては納期に間に合わせ、仕事がないときには下駄を突っかけて近くの本屋で立ち読みをする、というような生活を続けていた。

 千賀子と桂一がそういう関係になったのは高校生のときだった。それ以来、ずっと途切れ途切れに関係が続いているのだが、お互いになぜか結婚しようとは言い出さなかった。千賀子はひとりの生活が性にあっているようだったし、桂一も今更千賀子が自分の妻という人になるというのもよく分からないものがあったのだ。

 朝ご飯を二人で食べた後、桂一はちゃぶ台に手をついて立ち上がり、
「ごちそうさま」というと、
 千賀子は
「桂ちゃん、今日忙しい?」
と尋ねた。
「いや、昨日で今度の仕事は仕上げたから、今日は松林堂でも行こうかと思って。」
松林堂とは、歩いて10分ほどのところにある書店である。ご多分に漏れず、経営の苦しい小さな書店だったが、立ち読みをする割りに桂一は必要な本はすべてそこで注文していたので、毎月その店の売り上げに相当な貢献をしていて、店主も完全に黙認していた。ひとつには本の趣味が店主と似ていたからだろう、マンガや週刊誌のほかには店主の好みでだれが買うのかと思うような大きな美術書やイラスト集、建築関係の雑誌や哲学書などが並んでいて、桂一も興に乗ると数万円の画集をその場で買ったりしていた。
「骨董屋は一人いい客がいれば商売は成り立つというけど、ウチの商売が成り立つのは桂ちゃんのおかげだよ。」
と、気のいい店主はいつも言っていた。
時には店の奥の小さな茶の間に引っ張り上げられておばあさんと番茶を飲んだり、店主の小さな息子の将棋の相手をしてやったりしていた。

「今日はちょっとゆっくりしていかない?」
千賀子がお茶を入れながら言う。
「ああ、まあ約束してるわけじゃないからそうしてもいいよ。」
桂一はそういいながら、あの息子にこの間は角落ちにしてやって負けたから、今度は本腰を入れてやらないといけないなと考えてもいたのだった。
「今日はいい天気だから。」
 確かに、千賀子の家の茶の間にはゆっくりとした春の日差しがさしこんでいる。小さな庭にはいくつかの小ぶりな花木が植えられていて、桂一はとりわけ庭の隅に咲いている花海棠の木が好きだった。
「そうだな。たまにはのんびりするのもいいね。」
桂一は靴下を脱いで大の字になって伸びをした。
「桂ちゃんたら。全く自分の家のつもりなんだから。」
千賀子は靴下を拾って小さくたたみ、頭の後で腕を組んでいる桂一の隣に座った。

雀の鳴き声が聞こえる。小さな地方都市の閑静な住宅地で、住民の平均年齢も高く、子どもが同居しているうちもほとんどない。大きな通りからも遠く、本当にときどきかすかに踏み切りの音が聞こえることもあるが、車の音はほんのわずかしか聞こえなかった。

「でも千賀ちゃん、今日は仕事はいいの?」
「うん。今日はお休み。けっこう好きにお休み取らせてくれるからね。今日は桂ちゃんと久しぶりにゆっくり話でもしたいなと思って。」
「そうか。それもいいね。」
千賀子は立ち上がって台所に行き、しばらく冷ました薬缶から急須にお湯を入れると、ちゃぶ台の上にほうじ茶の入った湯のみを二つ並べた。
桂一は起き上がり、胡坐をかいてお茶を飲んだ。
「うまい」
「ありがとう、今日はけっこう上手く焙じられたわ。」
千賀子が自分でも味を確かめながら言う。
千賀子の生活は満ち足りている。桂一はいつもそう思う。

20100222-2

桂一は、自分の欲望について考えることがあった。自分が一体そのときに何を求めているのか。桂一は、自分が思考中心の人間であることはよく理解していたつもりだったが、欲望のような身体的なことにまで自分の思考が支配していることにときどき苦笑せざるを得ない気持ちになった。

桂一は、母親に叱られて育った。それは、母が余裕がなかったからだと今では理解できる。しかしそのころの記憶はからだの中にしみこんでいて、今でも母親に話しかけられると身構えることがある。自分は子供のころ、何かが破壊されている。桂一はときどきそう思う。ぶたれたり、何かされたりしたことがあるわけではない。自分が繊細すぎたからだ、と桂一は思う。母が悪いんじゃない。

桂一は、ときどき電車を乗り継いで都心の大きな書店に行き、一日中立ち読みをして帰ってくることがある。そのときに欲しい本を何十冊もメモし、帰りに松林堂によってそれを注文するのだ。松林堂もそれを心得ていて、決して読みやすいわけではない桂一の殴り書きを丁寧に解読し、注文を出す。取次ぎから本が届くのはいつも一週間はかかるのだが、そのうち何冊かは桂一も気がつかないうちに店頭に並んでいた。松林堂はそんな本を本棚からひょいひょいと取ると、桂一専用の大きな風呂敷に包み、桂一に手渡した。お金はいつも月末払いで、支払いが滞ったことはなかった。

「お、このイラスト集。これはいいね。」
松林堂が眼鏡をずらして桂一に言う。
「いや、これまであるとは思わなかった。松林堂さん、もうぼくの好みを全部把握してるよね。」
「いや、実は桂ちゃんが買ってくれなかったら俺が自分のものにしようと思っててさ。やっぱり買われちゃったね。」
それは、ノスタルジックな雰囲気のある少女の線画のイラスト集で、マンガのようなその線で、バッタにまたがって空を飛んでいる少女や、フェリーニの映画のように頭が魚になっている少年をつれて歩いている少女の絵が描かれていた。
「なんだか不思議なエロチシズムがあるよね、この人の絵は。」
桂一はうなずいた。
「何でこの絵に引かれるのかなあ、と室町堂で思ってね。」
室町堂とは桂一のよく行く都心の大型書店だ。
「そうだね。ノスタルジーを感じる部分もあるし、何かひとつの理想像みたいな感じもある。」
やっぱりこの人はわかっているな、と桂一は思う。二人はひとしきり雑談して、風呂敷包みを下げて桂一が店を出たときにはもう春の日も暮れていた。

桂一は自宅に帰ってきた。父はもう寝ていて、母はまだ帰ってきていない。兄弟たちは独立していて、桂一は一人だけ両親の家に住んでいる。桂一は自分の部屋に上がると、今買ってきたイラスト集をめくりながら、ひとしきり考えに耽った。

『自分は自我の壁がどこかおかしいところがある。それでいつも女のことは上手く行かなくなる。千賀子だけは、特にそういうことが気にならないのはなぜだろうかと思う。そのおかしさはたぶん、自分のエロスの問題と関係しているんじゃないかと思う。』

取り留めのない思考は続く。

『自分はときどき、自分の自我の壁がなくなってしまうのを感じる。世界と自分が一体になっているような。それをどういうわけか、いつもそうでなきゃいけないと思っている。ある人間ともうひとりの人間とは明らかに別の人間なのに、どういうわけだかいつの間にか壁がなくなってしまっている。自我がどんどん相手に侵食していくし、相手の感情がおんなじように自分の中に流れ込んできてしまったりする。大体相手はそういう状態に耐えられなくなって別れを迎える。そのことに自分はずっと気がつかないで来た。それはなぜだろう。』

桂一はポケットを探り、ねじれた煙草を一本取り出して火をつけた。

『それは小さいころの不全感によるものだろうか。原初的な母子一体感を、自分が十分に感じられなかったために、今でもそういうものを求める気持ちがあるのだろうか。』

イラスト集をめくって見る。バッタと少女の近しい関係。魚の頭に接続された少年の手足。ほかの画家だったら見るに耐えられないようなモチーフが、この作家のイラストではすんなりと受け入れられ、むしろノスタルジアのようなものさえ感じる。

『いや、母親に拒絶されたからって誰もがそういうものを持つわけではない。もともとの自分の素質によるものなんだろう。自分だって人に違和感を感じることはしょっちゅうだ。違う人間だということは頭ではものすごくよく感じているのだが、人と自分の間に線を引くことに対して、すごく後ろめたい感じがある。それはなぜなんだろうか。』

考えているうちにわからなくなってきて、桂一は考えるのをやめた。もう暗くなっていたがもういとど靴を履いて外に出ると、ちょうど母親が帰ってきた。

「桂一、どこへ行くの。」
「ああ、ちょっと出かけてくる。」
「何時ごろ帰るの?」
「わからない。先に寝ていていいよ。」
「そう。」

それだけいうと母は玄関の中に消えた。桂一は、少し離れたところにある駐車場にいって、車に乗った。エンジンをかけると、快い排気ガスの匂いがかすかに漂った。ライトをつけて夜の道を走り、対向車のヘッドライトを時折眩しく感じて、10分ほど走って夜の海についた。

桂一は駐車場に車を止めると夜の海岸に出た。真っ暗な海からは、低い波のうなり声だけが聞こえてくる。もちろん、誰もいない。道路の街灯がかすかに海岸に届くだけだ。桂一は、流木の上に腰掛けて、夜の海を見た。遠くにかすかに船の明かりが見えた。あれは漁船だろうか。

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