「あの時あの人があなたに行ったことを、あなたは覚えている?」
「覚えているさ」
「なんていったの?」
「それは秘密だ」
「なぜ」
「あの人と約束したから」
「もういいじゃない」
「よくない」
「私にも言えないの?」
「ああ、悪いけど」
「本当に悪いわ。私、あなたに秘密なんてないのに。」
「すまない」
「それで片付けないでよ」
「いや、別に片付けてるわけじゃ」
「片付けてるわ。私よりも、死んだ人との約束の方が大事なの。」
「悪い。」
「もう死んでるのよ。」
「死んでるからもう二度と誰にもいえないのさ。」
砂浜から波の音がした。電気がちかちかとしてやがて切れた。また停電だ。でも私たちのどちらも、動こうとしなかった。いつの間にか窓の外は少し明るくなっている。夜明けが近いのかもしれない。風が強い。風の音に混じって、波の音が聞こえた。
「春はあけぼの、ようよう白くなり行く山ぎわ」
彼女がつぶやいた。
「少し明かりて」
私は窓際の椅子に腰を下ろした。
「枕草子?」
「そう。窓の外の景色を見ていると、ときどき思いもかけない文章が頭に浮かぶの」
「俺もそんなことがときどきある。」
「あの人の言葉を教えて」
「言えないさ」
私は少し苦しそうな顔をした。
「ごめんね。言えないといったら言えないのね。」
「そうだ。」
彼女は下を向いた。やがて彼女は顔に両手を当てた。その両手から、溢れるような涙が滴り落ちた。