人が死ぬということはどうしようもないことで、人はいつかは死ぬ。それに対して人がどう思おうと、それは人の定められたことだ。死は生の終わりであるけれども、それと同時に永遠が始まる。有限の生の向うに無窮の死の世界があり、そこでは消えることのないともし火が燃えている。人の限られた生が本物なのではなく、そこで燃えている、その永遠の殿堂で燃えている灯火こそが本物なのかもしれないと思う。
たとえばそれはショパンの楽曲だ。ショパンの生命は終わっても、ショパンの命の灯である楽曲はいつまでも演奏しつづけられ、消えることはない。多くの人の生命は忘却され、沈黙のうちに顧みられなくなっていくけれども、本当はその灯火は魂の殿堂でいつまでも燃えつづけている。誰にも認められないことなんて本当はない。私たちはこの生の間に、生命の灯火を必死でかき立て、燃やそうとしている。死ねばその火はもう、永遠に燃えつづける。死は休息ではなく、永遠の律動の始まりなのだ。生きている間は永久機関はない。そして死の世界では、永久機関でないものはない。
かつん、かつん、とその殿堂を歩き回る靴の音がする。手に大きなたいまつを掲げ、多くの人を導いているたくましい男。私は小さなろうそくを持って、小さなカンテラを提げたあなたと一緒に殿堂を歩く。かつん、かつん。思ったより多くの人とすれ違うが、靴音は私の音しかしない。
やがて「真実の口」のようなレリーフが施された大きな円い扉が開く。日本銀行本店地下の大金庫の入り口のような、大きな扉である。その先にまばゆいばかりの黄金の山があるかと思いきや、緑の草原が広がっている。いのちの火の燃える部屋の向うは、青空の下の緑の草原。キリンと狸が同居している。ペガサスが滑空して跳び上がって行く。私の手にはいつのまにか一本のロープがあり、私はその投げ縄を大きな木に向かって投げる。大きな枝にひっかかると、私はその縄を引っ張る。引っ張った反動で、私は空に飛ぶ。