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20100222-1

桂一が目を覚ましたとき、千賀子はもう台所に立って何やら朝ごはんの菜を刻んでいた。桂一は裸の上半身を起こし、枕元の煙草を拾って一本抜き出し、マッチを擦って火をつけて一息ゆっくりと息を吸い込んでから、細く長く煙を吐いた。桂一は煙草を黒い灰皿の上に置くと、昨夜は枕元に乱雑に脱いだ下着が丁寧に畳んであるのを拾い上げて履き、脇の下の破れたTシャツを着て、青い大柄なストライプのシャツを着ようとすると、シャツは前ボタンが全部留められてあった。桂一は思わず苦笑いし、上のボタンを二つ三つはずすとセーターを着るように頭からシャツをからだに通し、腕と胸元のボタンを留めた。ズボンはまるでアイロンをかけたように――いや、おそらくは本当にアイロンをかけたのだ、折り目がきちんと通っていて、まるでクリーニング屋から帰ってきたばかりのようだと思った。靴下は、青いウールの新品のものが置いてあった。桂一は座ったままそれを履くと、立ち上がってチャックを上げてベルトを締め、部屋のすぐ隣の台所に行った。

千賀子はすぐに気配を察し、
「あ、桂ちゃん、おはよう。よく寝てたね。」
と鍋の蓋を上げながら言った。
「千賀ちゃんはずいぶん早く起きたの」
桂一が落ちてきた寝癖の髪を気にしながら言うと、千賀子は味噌を掬ってみそこしに入れながら
「うーん、わたし朝は早く目が覚めちゃうからね。買い物に行ったりアイロンかけたりしてたんだけど桂ちゃん全然目を覚まさないから。」
千賀子はおかしそうに笑うと、小さな皿に味噌汁を少しとって味見をして、小さく頷いた。
 千賀子は普段から、着物を着て過ごしている。家にいるときはいつもそうだ。出かけるときは洋服のこともあるが、着物の方が楽なのだという。桂一はいつも感心して千賀子の動きを見ているのだが、千賀子はいつも自然に、まるで最初から着物を着てすごしてきたかのように振舞うのだった。
 桂一と千賀子は、物心ついたときからの付き合いだ。最初に会ったときのことなど覚えていないが、二歳のときに千賀子の家が桂一の家の隣に引っ越してきて以来、保育園からずっと同じで、高校のときに桂一は男子校へ、千賀子が女子高へ行っていたけれども、大学もまた同じ国立に通っていて、もう何十年一緒にいるのか分からないほどだった。

 子供のころの千賀子は、今とは違って洋服ばかり着ていた。千賀子の上品なおばあさんは、桂一の記憶の中ではいつも確かに和服を着ていた。今千賀子が着ている着物も、おばあさんからもらったものがたくさんあると聞いたことがある。千賀子が着物を着始めたのはいつ頃だったか、そのおばあさんが大学生のときに倒れ、千賀子が病院に通い始めたころだったかもしれない。おばあちゃんはとりわけ、千賀子が着物を着るのを喜んだ。病院へ行くといっても、家族が出来ることはそうあるわけではない。でも千賀子はかいがいしく祖母の世話をして、おばあちゃんはいつもそれを目を細めて喜んでいた。

 おばあちゃんは退院したもののめっきり老け込んで、千賀子はかいがいしく世話をした。桂一の母もそうだったが、千賀子の母も働いていたので、千賀子は大学に通っているころから祖母の世話のために家にいる時間が長くなった。千賀子は着物で祖母の世話をし、着物での働き方を祖母から教わって、何の不自由もなく家事をこなせるようになった。

 祖母が亡くなったころ、千賀子の父と母の不仲は決定的になり、祖母の葬式を出した後、母は家を出た。妹のさわ子は母と一緒に京都へ行き、千賀子は父と一緒にこの家に残った。父もやがて家に帰ってこない日が多くなり、あるときを境に全く帰ってこなくなってしまった。人の噂では札幌で見かけたというが、定かではない。そんな家族のことを千賀子はどう思っているのか分からなかったが、千賀子は毎朝祖母の仏壇に手を合わせ、朝の家事を済ませると洋服に着替えて会社に通っていた。

 桂一は大学を卒業したあと、司法試験の勉強を二年ほどしたがものにならず、アルバイトでコンピューター関係の会社にもぐりこみ、仕事を覚えると近くに別のマンションを借りてその会社から仕事を回してもらっては納期に間に合わせ、仕事がないときには下駄を突っかけて近くの本屋で立ち読みをする、というような生活を続けていた。

 千賀子と桂一がそういう関係になったのは高校生のときだった。それ以来、ずっと途切れ途切れに関係が続いているのだが、お互いになぜか結婚しようとは言い出さなかった。千賀子はひとりの生活が性にあっているようだったし、桂一も今更千賀子が自分の妻という人になるというのもよく分からないものがあったのだ。

 朝ご飯を二人で食べた後、桂一はちゃぶ台に手をついて立ち上がり、
「ごちそうさま」というと、
 千賀子は
「桂ちゃん、今日忙しい?」
と尋ねた。
「いや、昨日で今度の仕事は仕上げたから、今日は松林堂でも行こうかと思って。」
松林堂とは、歩いて10分ほどのところにある書店である。ご多分に漏れず、経営の苦しい小さな書店だったが、立ち読みをする割りに桂一は必要な本はすべてそこで注文していたので、毎月その店の売り上げに相当な貢献をしていて、店主も完全に黙認していた。ひとつには本の趣味が店主と似ていたからだろう、マンガや週刊誌のほかには店主の好みでだれが買うのかと思うような大きな美術書やイラスト集、建築関係の雑誌や哲学書などが並んでいて、桂一も興に乗ると数万円の画集をその場で買ったりしていた。
「骨董屋は一人いい客がいれば商売は成り立つというけど、ウチの商売が成り立つのは桂ちゃんのおかげだよ。」
と、気のいい店主はいつも言っていた。
時には店の奥の小さな茶の間に引っ張り上げられておばあさんと番茶を飲んだり、店主の小さな息子の将棋の相手をしてやったりしていた。

「今日はちょっとゆっくりしていかない?」
千賀子がお茶を入れながら言う。
「ああ、まあ約束してるわけじゃないからそうしてもいいよ。」
桂一はそういいながら、あの息子にこの間は角落ちにしてやって負けたから、今度は本腰を入れてやらないといけないなと考えてもいたのだった。
「今日はいい天気だから。」
 確かに、千賀子の家の茶の間にはゆっくりとした春の日差しがさしこんでいる。小さな庭にはいくつかの小ぶりな花木が植えられていて、桂一はとりわけ庭の隅に咲いている花海棠の木が好きだった。
「そうだな。たまにはのんびりするのもいいね。」
桂一は靴下を脱いで大の字になって伸びをした。
「桂ちゃんたら。全く自分の家のつもりなんだから。」
千賀子は靴下を拾って小さくたたみ、頭の後で腕を組んでいる桂一の隣に座った。

雀の鳴き声が聞こえる。小さな地方都市の閑静な住宅地で、住民の平均年齢も高く、子どもが同居しているうちもほとんどない。大きな通りからも遠く、本当にときどきかすかに踏み切りの音が聞こえることもあるが、車の音はほんのわずかしか聞こえなかった。

「でも千賀ちゃん、今日は仕事はいいの?」
「うん。今日はお休み。けっこう好きにお休み取らせてくれるからね。今日は桂ちゃんと久しぶりにゆっくり話でもしたいなと思って。」
「そうか。それもいいね。」
千賀子は立ち上がって台所に行き、しばらく冷ました薬缶から急須にお湯を入れると、ちゃぶ台の上にほうじ茶の入った湯のみを二つ並べた。
桂一は起き上がり、胡坐をかいてお茶を飲んだ。
「うまい」
「ありがとう、今日はけっこう上手く焙じられたわ。」
千賀子が自分でも味を確かめながら言う。
千賀子の生活は満ち足りている。桂一はいつもそう思う。

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2010年02月22日 20:16に投稿されたエントリーのページです。

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