あっという間にお昼になった。さて今日は何を食べに行こう。私の密かな楽しみは、オフィスのデスクの引き出しに入れてある『東京カフェ案内』に載っているカフェを梯子することなのだ。もちろん昼休みだからそんなに遠いところまで出かけるわけにはいかない。たまには部下たちと食べなければならないときもある。女子社員はそういう場所に連れて行ってもいいが、男どもはそんなところに連れて行っても感心せず、もっと安くて量のあるところに行きたかったと不満顔になるので、安いが上手い蕎麦屋とかてんぷら屋に連れて行くことになる。まあそれもいいのだが、『カフェ案内』に掲載されているカフェももうあらかた回り終わり、あとひとつだけになったので、今日はぜひともそこに行きたいと思っていたのだ。やや離れた場所にあるのがなんだが、午後はそちらの方面でアポイントメントもあるのでちょうどいい。そちらに出かけるのも私一人なので好都合だ。仕事を口実に正午少し前にオフィスを出、地下鉄にのってその店に向かった。
下町の風情を残したその街に、最近はアートが流行っているらしく、コンテンポラリの美術館が出来たり、思いもかけないあっさりとしたお洒落なカフェが二つ三つできている。そのうちのひとつが今日のターゲットだ。こじんまりした店なので早めに行かないと入れないかもしれないと思ったが、案の定既にテーブルは満員で、店の中で待つことになった。
待つ椅子に座って鞄から雑誌を取り出して読み始める。あの作家が新作を出したのか。ああまり好きな作家ではないのだが、題材が面白そうだ。さて買う価値はあるだろうかと首をひねる。帰りに書店によって立ち読みして見るか。そう思って記事に丸印をつけ、鞄に仕舞いこむと、窓際の席にひとりで座っている若い女性がふと目に入った。
どこかで見たような気が、と思って考えてみると、体調不良ということで休職している平野笑美子であることに気がついた。入社の成績は大変優秀で将来を嘱望されていたのだが、入社二年目の去年、何があったのかノイローゼという診断書が出され、ここ半年ほど会社に出てこない。私の会社はおおらかなところがあってそれでも辞めろとは言わないのだが、その恵美子とこんなところで会うとは思わなかった。私は席を立ち、笑美子の席へと近づいた。
「ここに座ってもいいかな」
雑誌に目を落としていた笑美子はいぶかしげに私を見、気がついて破顔一笑した。
「山下さん。こんなところにどうして?」
「いや、こちらの方で仕事があったのでね。少し早めに来てここでランチでもと思ったのさ。」
「あいかわらずですね。」
笑美子は嬉しそうに笑う。そういえば、こういうカフェにいちばん連れ出したのは、この平野笑美子だった。女子社員でもそういうときに反応のいいのもいればもうひとつのもいる。しかし笑美子はいつも楽しげで、こういうカフェの雰囲気を心から楽しんでいるようだった。
「病気はもういいのかい。」
「はい、おかげさまで。普段はだいぶ気分も安定しています。」
「そうでないときもあるの?」
「そうですね。まだちょっとバランスを崩すと動けなくなったりすることもあるんですけど、だいぶよくなってきました。お医者さんに、積極的に外出するといいよといわれたんで、それなら山下さんに教えられた気持ちのよいカフェにでも出かけてみようと思って、『東京カフェ案内』を買って来てみたんです。ちょうど私の家もすぐ近くですし。」
「そうか、それはよかった。」
「でもすみません。」
笑美子は急に済まなそうな顔になって言った。
「実は今日は人と待ち合わせているんです。もうすぐ来ることになっているんですけど。」
なるほど、笑美子だって若い女性だ。待ち合わせる相手もいるだろう。そんなところに居合わせるのも野暮な話だ。ここは退散するべきだろう。
「そうか、それは悪かった。じゃあぼくはこの店はまたの機会にするよ。どうぞごゆっくり。」
そう言って立ち上がると笑美子は済まなそうに、
「すみません。でも山下さん、今度またこのカフェで待ち合わせしませんか。お時間のあるときにゆっくりお話したいと思うんです。このカフェ、とても気持ちいいですよ。」
「そうか、ありがとう。そうだね。またこの近所にくる予定が出来たら連絡するよ。メアドは変えてない?」
「はい。ぜひ連絡してくださいね。」
「わかった。またね。」
私は店の人に断りを入れて外に出た。春の風が吹いていた。