桂一は、自分の欲望について考えることがあった。自分が一体そのときに何を求めているのか。桂一は、自分が思考中心の人間であることはよく理解していたつもりだったが、欲望のような身体的なことにまで自分の思考が支配していることにときどき苦笑せざるを得ない気持ちになった。
桂一は、母親に叱られて育った。それは、母が余裕がなかったからだと今では理解できる。しかしそのころの記憶はからだの中にしみこんでいて、今でも母親に話しかけられると身構えることがある。自分は子供のころ、何かが破壊されている。桂一はときどきそう思う。ぶたれたり、何かされたりしたことがあるわけではない。自分が繊細すぎたからだ、と桂一は思う。母が悪いんじゃない。
桂一は、ときどき電車を乗り継いで都心の大きな書店に行き、一日中立ち読みをして帰ってくることがある。そのときに欲しい本を何十冊もメモし、帰りに松林堂によってそれを注文するのだ。松林堂もそれを心得ていて、決して読みやすいわけではない桂一の殴り書きを丁寧に解読し、注文を出す。取次ぎから本が届くのはいつも一週間はかかるのだが、そのうち何冊かは桂一も気がつかないうちに店頭に並んでいた。松林堂はそんな本を本棚からひょいひょいと取ると、桂一専用の大きな風呂敷に包み、桂一に手渡した。お金はいつも月末払いで、支払いが滞ったことはなかった。
「お、このイラスト集。これはいいね。」
松林堂が眼鏡をずらして桂一に言う。
「いや、これまであるとは思わなかった。松林堂さん、もうぼくの好みを全部把握してるよね。」
「いや、実は桂ちゃんが買ってくれなかったら俺が自分のものにしようと思っててさ。やっぱり買われちゃったね。」
それは、ノスタルジックな雰囲気のある少女の線画のイラスト集で、マンガのようなその線で、バッタにまたがって空を飛んでいる少女や、フェリーニの映画のように頭が魚になっている少年をつれて歩いている少女の絵が描かれていた。
「なんだか不思議なエロチシズムがあるよね、この人の絵は。」
桂一はうなずいた。
「何でこの絵に引かれるのかなあ、と室町堂で思ってね。」
室町堂とは桂一のよく行く都心の大型書店だ。
「そうだね。ノスタルジーを感じる部分もあるし、何かひとつの理想像みたいな感じもある。」
やっぱりこの人はわかっているな、と桂一は思う。二人はひとしきり雑談して、風呂敷包みを下げて桂一が店を出たときにはもう春の日も暮れていた。
桂一は自宅に帰ってきた。父はもう寝ていて、母はまだ帰ってきていない。兄弟たちは独立していて、桂一は一人だけ両親の家に住んでいる。桂一は自分の部屋に上がると、今買ってきたイラスト集をめくりながら、ひとしきり考えに耽った。
『自分は自我の壁がどこかおかしいところがある。それでいつも女のことは上手く行かなくなる。千賀子だけは、特にそういうことが気にならないのはなぜだろうかと思う。そのおかしさはたぶん、自分のエロスの問題と関係しているんじゃないかと思う。』
取り留めのない思考は続く。
『自分はときどき、自分の自我の壁がなくなってしまうのを感じる。世界と自分が一体になっているような。それをどういうわけか、いつもそうでなきゃいけないと思っている。ある人間ともうひとりの人間とは明らかに別の人間なのに、どういうわけだかいつの間にか壁がなくなってしまっている。自我がどんどん相手に侵食していくし、相手の感情がおんなじように自分の中に流れ込んできてしまったりする。大体相手はそういう状態に耐えられなくなって別れを迎える。そのことに自分はずっと気がつかないで来た。それはなぜだろう。』
桂一はポケットを探り、ねじれた煙草を一本取り出して火をつけた。
『それは小さいころの不全感によるものだろうか。原初的な母子一体感を、自分が十分に感じられなかったために、今でもそういうものを求める気持ちがあるのだろうか。』
イラスト集をめくって見る。バッタと少女の近しい関係。魚の頭に接続された少年の手足。ほかの画家だったら見るに耐えられないようなモチーフが、この作家のイラストではすんなりと受け入れられ、むしろノスタルジアのようなものさえ感じる。
『いや、母親に拒絶されたからって誰もがそういうものを持つわけではない。もともとの自分の素質によるものなんだろう。自分だって人に違和感を感じることはしょっちゅうだ。違う人間だということは頭ではものすごくよく感じているのだが、人と自分の間に線を引くことに対して、すごく後ろめたい感じがある。それはなぜなんだろうか。』
考えているうちにわからなくなってきて、桂一は考えるのをやめた。もう暗くなっていたがもういとど靴を履いて外に出ると、ちょうど母親が帰ってきた。
「桂一、どこへ行くの。」
「ああ、ちょっと出かけてくる。」
「何時ごろ帰るの?」
「わからない。先に寝ていていいよ。」
「そう。」
それだけいうと母は玄関の中に消えた。桂一は、少し離れたところにある駐車場にいって、車に乗った。エンジンをかけると、快い排気ガスの匂いがかすかに漂った。ライトをつけて夜の道を走り、対向車のヘッドライトを時折眩しく感じて、10分ほど走って夜の海についた。
桂一は駐車場に車を止めると夜の海岸に出た。真っ暗な海からは、低い波のうなり声だけが聞こえてくる。もちろん、誰もいない。道路の街灯がかすかに海岸に届くだけだ。桂一は、流木の上に腰掛けて、夜の海を見た。遠くにかすかに船の明かりが見えた。あれは漁船だろうか。