村上春樹訳『グレート・ギャツビー』が11万部突破

Posted at 06/12/02 Comment(0)» Trackback(0)»

村上春樹訳・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』読了。とてもよかった。他の小説では味わうことの出来ない深み、あるいは高みにこの翻訳小説は達しているように思う。この訳業には惜しみない拍手を送りたいと思う。

こちらのニュースによると、11月23日現在で『ギャツビー』は11万部も売り上げているのだという。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は30万部を突破しているというから、『ギャツビー』もそのくらいは行くかもしれない。改めて村上という作家の影響力の大きさを実感させられる。

『ギャツビー』は1925年の作品なので、まさにアスピリン時代そのもの。密造酒で酔っ払ってふらふらしているのをアスピリンで抑えていたという、あの時代だ。黄金の20年代は禁酒法時代でもあったわけだが、作中そのことを思い出させるのはギャツビーが酒の密輸業者ではないかと疑われるくだりくらいで、現実には作中人物たちはがんがん酒を飲んで酔っ払っている。その時代の風俗については実際には私はあまり作品等を読んだわけではなく、どんな感じだったのかはあまりよくわからないが、少なくとも飲む方はあまりきちんと取り締まられてはいなかったということなのだろうか。

アメリカの20年代の好景気と30年代の不況とを、現代日本のバブルとその崩壊後の時代に重ねあわせ、そのことによる「成熟」が読者のこの作品への共感を呼んでいるのではないかと村上はこの記事の中で言っているが、その見解に関しては私自身としては疑問符がつく。まあそういうことを言ってもいいとは思うけれども、いかにもその発想が陳腐でステロタイプなものに感じるからだ。まあしかし村上というのはそういうことを言う人で、そういう発言と小説のすばらしさは多分別のところに由来するものだから、それはそれでいいとは思う。コンラッドを帝国主義的作家と非難するのと同じようなばからしさがそこにはある。

私がこの作品自体に読むのは、やはり鎮魂の深さと祈りの気高さ、のようなものであって、確かに主人公キャラウェイはこの作品の中である種の成長をしていることは確かだ。作品の中で30歳になっているし、他の登場人物がみな日常に、自分自身のポジションに結局は立てこもってしまうのに対し、彼だけがギャツビーに対する同情と友情に殉じて行動する。それは成長といえば成長なのかもしれないが、冒頭のあたりを読むとそれは彼自身がもともと持っていた資質の現れだと取ることも出来る。私自身としては、これを教養小説、つまり主人公の成長の物語ととらえる気が全然しない。確かに変化はしているが。この変化を成長と捉えるかどうかが村上と私の見方の違いなのかもしれない。

それにしても、この作品が読まれるのはいいことだ。ギャツビーに付いて語れる相手がいるといいなあと思う。


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