「勉強しなおしてまいります」

Posted at 06/11/23 Comment(0)» Trackback(1)»

噺家の柳家小満んが書いた『べけんや』が面白い。これは小満んの師匠の八代目桂文楽を回想したものだ。

文楽、と言っても落語に詳しくなければなかなかどういう人だかぴんとこないのだが、こういうエピソードならどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。

あるとき、高座で落語を語っていた。そしてひょ、っと次の話が出てこなくなる。忘れてしまったのである。高齢の大ベテランが立ち往生してしまったのだ。しかし、次の台詞は語り草になっている。

「勉強しなおしてまいります。」文楽はそういって頭を下げ、そのまま高座を降りてしまったのだ。そしてなくなるまで、二度と高座に上ることはなかった。

文楽という人は粋で形がよくて上品だったそうだ。もちろん女性にもよくもてて、そっちのトラブルもしょっちゅうだったらしい。いつかはそういうこともあるだろうと思い、かねて覚悟はしていたらしい。「勉強しなおしてまいります」というのは実は用意された台詞だったのである。

この言葉を思い出したのは、SUPER JUMPに連載中の『王様の仕立て屋』を読んだときだ。ナポリの重鎮、ベリーニ伯爵に「個性の進歩がない」ことを指摘された主人公・織部悠はそれを恥じ入り、勉強の足りなさを痛感してサルトを閉め、修業をしなおそうと決意する。周囲の人々がそれを止め、奮い立たせて、織部はもう一度ベリーニ伯に最上の布地でスーツを作らないかと売り込む。そしてベリーニ伯はその挑戦を受ける、というストーリーである。

もちろん状況は違うのだが、「勉強が足りない」と認め恥じ入ることを美徳とする日本人的感性をどう評価するか、というところが問題になっている点は同じである。文楽は「忘れましたごめんなさい」というわけには行かないから「勉強しなおしてまいります」と言ったわけだが、もう勉強はできなかった。この言葉自体をどう考えればいいのか、私にはまだよくわからないのだが、文楽とはそういう人だった、というのは一つのメッセージではあると思う。

私も織部のような状況に置かれて恥じ入り、萎縮してしまった経験は数知れずある。そこで開き直って強く出ないとだめだと思うようになったのはずいぶん年を取ってからの話だ。そして開き直っても何とかなるということを知ることで、すべてのことが相当楽になったのも実際の話だ。(もちろんどうにもならない事だってあるが、それはそれで仕方がない)

なんというかそういうのは人生の機微のような話で、昔の人だってそこで恥じ入ってばかりいたわけではなくてなにくそとがんばることが実際には多かっただろう。そこはいったん自分の非を認めると言うのが美徳であり、共通認識としてあったからこそ一度そういうパターンを踏んでさらに飛躍する、ということがよくあったのだろうと思う。

ナポリのような異文化の状況でそういう日本人的な美徳感覚は通用しない、というのが今回の『王様の仕立て屋』のテーマで、まあそれはそれとしてよくわかるし、実際問題としてそういう根性で対処しなければ現在では日本でもダメだろう。しかし、『べけんや』がいいと思うのは、そういうことも全部ひっくるめた上で人生の機微の中にそういう言葉も位置付けて、昔の日本のふくよかな人間関係を描き出しているところなのだ。

一つの言葉の裏には、もっと広い世界がある。そんな、昔はあたりまえだったことを、もう一度思い出させ、確認させ、新鮮な思いで再発見させてくれる本なのだと思う。

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