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村上隆『芸術起業論』

芸術起業論

幻冬舎

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神保町で本を見ていたのだが、三省堂一階の書棚を物色していて、村上隆『芸術起業論』(幻冬舎、2006)を手に取る。「欧米では芸術にいわゆる日本的な、曖昧な、「色がきれい…」的な感動は求められていません。/知的な「仕かけ」や「ゲーム」を楽しむというのが、芸術に対する基本的な姿勢なのです。/欧米で芸術作品を制作する上での不文律は、「作品を通して世界芸術史での文脈をつくること」です。ぼくの作品に高値がつけられたのは、ぼくがこれまで作り上げた美術史における文脈が、アメリカ・ヨーロッパで浸透してきた証なのです。」パッと見たのはこの場所だったかはっきり覚えていないが、「まったくそのとおりだ」と思った。これを買おうとは思ったが、いつもだいたい東京堂でもう一度本を見て、周りの本との配置というか文脈で買うことが多いので、いったん三省堂を出てふくろう店と東京堂本店を見に行くが、『芸術起業論』は置いていなかった。

考えてみれば、目に付いた書店こそが、それを私に提示して見せた「功績」(と言ったら不遜だな、なんといえばいいのか)があるわけだから、その店で買うべきなのだ。で、戻ってきて三省堂でそれを買う。ブックカバーが神保町の絵地図になっていて、これは結構便利だ。三省堂はなんとなく商売っ気が強すぎて(つまり本自体の研究が不足しているような気がして)敬遠しているところがあったのだが、神田古書店街自体を盛り上げようという志が感じられてあたたかい気持ちになった。

夕やけがきれいだ。すずらん通りをぶらぶらして、『ティーハウス タカノ』に入る。この店も久しぶりだ。今まで私はなんとなく新宿のタカノフルーツパーラーと関係があるのかと思っていたら、全然関係なくて、こちらを読んでそういう店だったのかと納得した。ダージリンにティーケーキを注文。『芸術起業論』を読み込む。

正直言って驚いた。読めば読むほど、書いてある内容に納得できる。誰もが賛同できる内容だとは思えないが、少なくとも私にはものすごくしみ通るように言葉が入ってくる。言葉にしたら簡単で、軽薄なことのように思えるのだが、その意味するところはものすごく重いし大きい。今まで私は村上と言う人のことをあまりよく知らなかったし、作品も少ししか見たことがないし、印象にもあまり残らなかった。日本のオタク文化を芸術に借用してうまくやってブレイクした人がいるらしい、というステロタイプで認識していたのだが、現象面ではまったくそのとおりなのだが、考えているところはそういう下司の勘繰り的な次元とは無縁のところにある。一言で言えば勝負している人なのだ。

奥付を見て1962年生まれだということを知る。まったく同じ世代であるせいだろうか、暗黙知的というか、無意識での世界認識の仕方がものすごく腑に落ちるのである。われわれの世代の人の発言で、ここまで心の底からその通りだと思った文章を読んだことがない。正直言って天籟に打たれたような感想さえ持った。

私はやはりアートの分野の人の言葉が一番理解できるらしい。藤田嗣治も面白いと思ったが、夏休みに読んだ藤田の『腕(ブラ)一本』も感想を書いていないのだけど、感想など書きようがないのだ。ただ面白いとかそのとおりだと頷いた、だけでは書評にならないではないか。書評になどならないのだ、バイブルというものは。経典なのだ、アートの分野で本当に深く共感した人の言うことは。

いやもうやっぱり感想になどなっていないが、その影響を強く受けたせいもあって『読書三昧』のトップページのコメントを妙に気合の入ったものに書き直してしまった。こういうものは気恥ずかしいところがあるのだが、これくらいのことを書いておかないと「何だこりゃ」とは思ってもらえないだろうと思う。「何だこりゃ」と思ってもらえなければ読んでももらえない。読んでもらえなければ話にならないので、「何だこりゃ」と思ってもらうことは重要だ。何を書いてるんだこりゃ。

いやもう驚きにただ打たれているわけで、どこがどうなんてことは言えないというか言っても仕方がない。こちらの生き方の問題であって、これを読んだことで何かを変化させてお見せしていくしかないという問題なのだと思う。(9.26.)

ずっと村上隆『芸術起業論』(幻冬舎、2006)を読んでいて、新宿で特急に乗ってからも読みつづけ、車中で読了したのだが、読了してからもう一度読み直している。それだけこの本の言っていることはものすごく自分にとってはインパクトがある。誰にでも、とは思わないが、「私自身」にとってこれだけインパクトのある本と言うのは本当に滅多にない。アートだけでなく、日本のアカデミズムとか学校産業の問題についてこれだけ共感できる指摘と議論を展開している本はなかなかない。

FMで『私の名盤コレクション』が始まった。きょうはゲストが川平慈英。おー、アース・ウィンド・アンド・ファイヤーだ。超懐かしい。昔はよく聞いたなあ。

村上の絵や作品も、最初はものすごく違和感があったのだが、ずっと本を読んで作者の意図のようなものを理解してくると、非常に面白いものに見えてくるからふしぎだ。

「村上の絵は単なるマンガのマイナー・コピーのように見えるが、そこには単なる戦略だけではない、死への眼差しにも似た、アートの根源としか言いようのないものが含まれている。等身大フィギュアの圧迫感や、「ロンサムカウボーイ」「ヒロポン」と言った作品も、オタクの純粋な欲望の対象である「べき」フィギュアが、それ自身が欲望する主体になると言う逆転が表現されていて、ただ熱愛の対象を求めているオタクからは憎悪の対象にならざるを得ない。そこの屈折に闘いがあり、そこが面白いと思う。

村上の絵も一見してなんだかよくわからないが、だんだん見ているうちに西欧美術の一つの主流たるダリやキリコの作品を背景として使っているのではないかと見えてくる。極日本的ないかがわしくさえある「かわいい」キャラクターが西欧美術のコンセプトの中に図々しく、あるいはまがまがしく現れていて、これはダリの信奉者などからすればある種の悪夢感があるのではないかと思う。ダリやキリコに登場する超越的なキャラクターがマンガ的な笑顔のヒマワリになっている邪悪さがある。」

読みながらそういうメモを書いていた。一見しただけできちんと美術史的な分析をしているわけではないのだが、描き方はダリ・キリコ的であると同時に歌舞伎の舞台的でもあり、浮世絵的でもある。この人は相当たくらみの深い人だから、まだ幾らでも仕掛けがあって、今書いていることなど後で読んだら恥ずかしいようなものかもしれないのだが、作品に(しかも写真で)触れてから何日もしないのにそれだけいろいろなことが浮かんでくると言うのは凄いなと思う。

なんというか、中途半端に禁欲的な世界観とでもいうか、そういうものがかなり転回させられた感じがする。やりたいことを持ち、やりたいことをやるためのたたかい。やりたいことが欲望なのであり、欲望と言うのは邪悪なものかもしれない。その邪悪なものを正当化していくための論理が、アートなのだと言ってもいい。正当化のためにはソフィスティケートが必要だったり、ぎりぎりまで妥協なしで表現し尽くす根性が必要だったり、それにサブタイトルをつけたり説明をでっち上げたりするプロデュース能力が必要だったりする。その中でも心底邪悪なものを本当に心底邪悪なまま政治的に表現したりするとヒトラーになってしまうし、行動に移したら犯罪者になってしまうが、そこまで行かないまでも欲望と言うものは常にそういう通路を持っている。そういう意味ではアーティストいうのはろくでもない連中なのだが、そのろくでもなさとまともに向き合うと言うことはおそらく普通の人間には仕切れないことであって、それを変わりに引き受ける破目になるという業の深さをアーチストというものは持っている。だからこそ、と言うと非常に逆説的だが、だからこそアートが人を感動させるのである。感動が深い分だけ、ほんとうは業が深いのだ。作る側も、見る側も。

まあそういうアートの基本とも言うべきことがこの本には徹底的に述べられていて、しかもそれを商売にして何億円も売り上げていくという離れ業の実践が語られているというのは。

この本は何度も読み返すことになるだろう。いや、何度も読み返さなければならない。自分のやるべきことの羅針盤に、この本はなると思う。(9.27.)

アートはもう始まっている(村上隆・書籍およびDVDなど)  

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