遠くで小さく、女の子の声が聞こえる。あれはミナだろうか。
「ミナ、そっちへ行っちゃあぶないよ」
「大丈夫だよ、お母さん!
私は森の中を走っている。踏み慣れない道を、底の平らな靴で走っている。迷路のような森の中に悪夢のように根を張り枝を伸ばした大木がいくつも立ちふさがる。私は大きな根につまづいて転ぶ。
「ミナ、どこにいるの?」
「こっちだよ、お母さん!」
私はおろおろして、靴を脱ぎ捨て、裸足で落ち葉を踏みしめ、張り出した根をまたぎ、ぽっかり空いた根と幹の間の空洞を潜り抜け、手探りで道を探す。スカートが足に絡みつき、いつの間にかひざが大きく破れている。ストッキングに穴が開き、ひざの内側にはみみずの這ったような傷ができて、血がにじんでいる。
「ミナ、どこにいるの?」
「こっちだよ…」
急に声が消える。そしてその一瞬あとに、長い恐ろしい悲鳴が聞こえた。
「お母さん!」
耳元で大きな声がした。私は飛び起きる。
「お母さん、大丈夫?またうなされてたよ」
あたりを見回す。見なれた寝室。隣で寝ていたみなが心配そうに私の顔をのぞきこんでいる。
「大丈夫よ。また夢を見ちゃった。何度目かしら。」
ミナは苦笑する。
「もう、お母さんたら、そんなに私が心配なの?」
ミナが心配?そうよ、もちろん。でも、そうかしら?
「お母さん?」
ミナが私の顔をのぞきこむ。
「私はそんな危ないことしない。大丈夫よ。」
頭がくらくらする。ミナの声が、現実の側にあることは、わかる。時計がかちこちと時を刻む音がする。あれはどちら側の音だろうか。
「いま、何時?」
ミナは枕元の目覚めし時計を手に取る。
「まだ四時半よ。お母さん、汗びっしょりかいてる。パジャマ着替えたら?」
「ごめんね、心配させて。」
私は朦朧とした心持ちで立ち上がる。
「危ない!」
私は布団で寝ているのかベッドで寝ているのかもわからなくて、ベッドの上に立ちあがってしまったのでクッションを踏み込み過ぎ、よろけてしまったのだ。ミナが急いで立ち上がって私を支える。でも小学一年生のミナが私を支えきれるはずがない。私たちは二人で倒れこんでしまった。でも本能的に、ベッドの側に倒れたのでクッションの上でバウンドしただけで何事もなかった。頭がくらくらする。ミナが私に抱きついた。
「お母さん…」
その抱きしめる力の強さに、私は我に返った。
「ごめんね、心配させて。」
ミナは泣き出しそうな声で言う。
「大丈夫、どこにも行かないわ。」
「夢の中に行ったまま、帰って来ないなんていやだよ。」
私の胸が大きく脈を打った。大丈夫だろうか。私は本当に、夢の中から帰って来られるのだろうか。
「大丈夫よ、大丈夫…お母さんはミナを置いてどこかに行ったり、しない。」
半分、自分に言い聞かせるようにミナに応える。
「本当?」
「本当よ」
私の腕の中に、私の大事なものがある。私のいのちと同じくらい大事なもの。でもその同じくらいの大事さが不安だ。私の命は、ときどき羽が生えたように軽くなる。この子の命がそうなってしまったらどうしよう。そんなことはない。私はミナのおでこにキスをした。ミナはみるみる笑顔になった。
「いつものお母さんだ。いつものお母さんに戻った」
そうだろうか。ううん、そうだ。私は、いつもの私の戻ったんだ。キスの魔法。あの人とのキスもそうだった。…私は何を考えているんだろう。私には、私の壊れやすい宝石がある。
ミナはおでこのキスの感触を楽しむように笑って、私の身体から身体を離した。ミナのパジャマもぐっしょりと濡れている。
「ごめんね、お母さんの汗でミナも濡れちゃった。暖かいのに着替えようね。」
「うん」
私は髪をかき上げて、両手で顔を覆った。