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クッツェー『恥辱』

恥辱

早川書房

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とにかく図書館で本を借りようと動かないからだを鞭打って(大げさすぎる)出かける。午後5時に閉館なので4時過ぎがタイムリミットだった。とりあえずクッツェーの『恥辱』(早川書房、2000)を借りる。

クッツェーはまだ読み始めたばかりだが、「大学教授の性」と「性にまつわる失敗」ということでなんだか心理的に読みにくい。自分の状況に重なる話、特に金と女に絡む話はどうも苦手だ。自分の中にある何かが告発されたり、断罪されたりしている気がしてしまうからだろう。三島由紀夫『青の時代』も読んでいて途中で読めなくなったことがある。自分の「罪」意識というものを客観的に見ようとするためには必要なことなのかもしれないが、変にいじると妙な倒錯が起こりそうな気もするし、難しいところがあるなあと思う。(6.18.)

日中はクッツェーを読もうと一進一退。なんとかp.32まで行ったがぬかるみにはまる感じに困っている。shaktiさんのコメントに「自虐文学」とあったが、そうかそういうふうにとらえて読めばいいのかと思う。自分の痛さに耐えながら読むというのもある種の文学の醍醐味なのかもしれない。そんなことが自分に出来るのかどうか、やってみないとわからないが。(6.19.)

昨日は午前中に松本に出かける。最近の体調がどんなものなのかあまりよくわからなかったのだが、そう悪くはないようだ。午後はあまり時間がなくてあまりいろいろなことが出来なかったが、時間を作りつつクッツェー『恥辱』(早川書房、2000)を読み、寝る前までに何とか読了した。

この小説は本当の意味で読むのが大変な作品だった。読みながら本気で怒りを感じたり、嫌悪感を持ったりすることは今までそんなになかったのだが、自分の中のマグマのようなものが呼び起こされて、自分という人間がどういう人間なのかという普段見ていない面にも向き合わざるを得なくなったからいろいろ疲れた。

作風としてはちょっと思わせぶりなサンボリズムというかそういう部分が結構あって、ある意味読みにくくある意味不意に笑わされる。解説ではそれを「引用の地雷」と表現していたが、なるほどなあと思う。最後にバイロンが出てきて、ちょうど『マンフレッド』を読んだばかりだったのでその余韻がこの小説の理解を助けたという感じがある。世の中に偶然というものはない、という話があるが、確かに偶発的ないろいろなことが必然的にあることの手助けになるものだと思う。ただ、グィッチョーリ伯爵夫人テレサについてはほとんどまったく知識がなかった。この小説の中で描写されている限りでしか知識はない。

『恥辱』という題名は主人公のラウリーの「セクハラの烙印」と、その娘ルーシーのアフリカ人グループによる「憎しみに満ちたレイプ」という二つをさしているわけだが、当然のことながらその二つの事件をめぐる描写は不愉快でやりきれなく、嫌悪や憎悪に満ちている。前者はポリティカル・コレクトネスの嵐吹きすさぶ「清教徒時代としての現代」を描き出し、後者は白人優位社会の崩壊と底で噴出した被支配者たちの復讐と憎悪、また白人の論理の崩壊とアフリカ人の論理の台頭を描いている、といえばいいか。ポスト・モダンがこれだけ激しい形で描かれた作品は他にないのではないかという気がする。それは主人公ラウリーのある意味きわめて魅力的な個性があって初めて成り立つものだろう。ロマン派詩人を研究する恋愛至上主義者、性的な快楽主義的自由主義者、不信仰者の初老の男。その娘がニューエイジに影響されたナチュラリストで動物愛護家でレズビアンというギャップ自体が笑えるが、ある意味不条理な設定が物語りの展開とともにさらに激しさを増していく。これはハードである。

この世界は調和した世界なのか、不調和の世界なのか。ロマン派はモダンの中では不調和を追い求めるが、ポストモダンに直面すると調和の側の存在であったことが明らかになる。逆にレイプを実行するグループは世界の不調和への復讐の実行者であるわけだが、最後に「勝利」するのはポストモダンないしは前近代の論理の体現者であるぺトラスである、ということになる。そこにはロマン派が考えるのとはまったく別の調和が生まれつつある。なんというか、私はカフカを読んでいないが、カフカの作品というのはこういう雰囲気なんだろうか。ちょっと読んでみたくなった。

このラウリーはいわばルイ15世初期の摂政時代のリベルタンで、それが処刑と虐殺のフランス革命時代に直面した、とでも言えるのかもしれない。そのような意味でのリベルタンの典型が革命と帝政時代を生き抜いたタレイランであるが、彼は「革命前に生きたことのない人間に、人生の本当の楽しみなどわからない」と言っている。また王政の復活とともにフランスに戻った貴族たちは「何事も学ばず、何事も忘れず」といわれたが、少なくともラウリーはそういうわけには行っていない。少なくとも動物に対する愛と憐憫を覚え、そしてそれに苦しみながらも生きていけない動物に苦しませずに死を与える動物愛護家と少なくとも行動面では同じ行動を取るようになるところで唐突なラストを迎える。

この小説を読みながら自分の中の封印が破れた部分がたくさんあって、それはとても不用意に書けるようなものではないのだが、そういうことで自分という人間と現代という時代についての認識と理解が深まるということなんだよなあと思う。小説を読むというのは大変なことだ。

やっぱとりあえず、カフカは読まないと駄目だな。(6.22.)

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