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近藤ようこ『水鏡綺譚』
水鏡綺譚青林工芸舎このアイテムの詳細を見る 昨日は夕方神保町に出かけて本を物色。いろいろ探したが、結局三省堂で近藤ようこ『水鏡綺譚』(青林工藝舎、2004)を買った。
私は近藤ようこの作品が好きなのだが、何でも買う、というわけでもない。ただ、時代物は全部ほしい、とは思う。中世から戦国の時代をマンガにしている(それも中世文学の素養に基づいて)人はほかにいない。大傑作は『説教小栗判官』だが、これは何度読んでも泣く。
青林工藝舎の本は厚さの割には高いので、どうも二の足を踏みがちだが、逆にこれはずいぶん厚い本だったので(448ページ)、買う気になった。現代ものでは、デビュー作の『仮想恋愛』のような抽象性の高いものはわりあい好きなのだが、ほかのものは時により好き嫌いが分かれる。なんとなく中島みゆき臭くなっているときは(いや、中島みゆきは中島みゆきで結構好きなのだ、LPも何枚も持ってるし)ちょっとイヤだなと思うときもある。しかし『仮想恋愛』は、一時自分のバイブルのようなものだった。
『水鏡綺譚』を読みながら(まだ読みかけなのだが)、近藤ようこの作品が自分の心の中にどんなに奥のほうまで入り込んでいる作品であったかということを思い出した。読みながら『説教小栗判官』を引っ張り出し、もう一度通して読んでしまった。照手姫の夢の中で馬に後ろ向きに座らされて冥土に行く小栗、という絵。たくさんの僧侶が描かれ、追いかける照手が描かれ、そしてすべての登場人物の中で小栗だけがこちらを向いている。この絵がもう一度心に突き刺さる。それを見ていたら高野文子『絶対安全剃刀』が読みたくなり、探し始めたのだが、みつからない。ダンボールに入れてどこかにつんであるのだと思うが、高野文子を仕舞いこんでしまっている自分て一体、という気がした。
好きな、あるいは影響を受けた女性のマンガ家を三人上げよ、と言われたら高野文子、近藤ようこ、こうの史代だろうか。(しりとりではない)高野は高校時代から大学1年にかけて、近藤は大学2年からずっと、こうのはここ1、2年だが。なんというか、マイナーで地味な作家たちだが、この人たちにしかないものを明らかに持っている。考えてみたら、ほかにも安野モヨコとかずっと昔だが竹宮恵子だとか好きな人はもちろんいるのだけど、生きるってこととかを考えさせられる作家というのはそうはいない。
男のマンガ家では山田章博、伊藤重夫。絶対的というのはあげにくい。好きなマンガ家といえばまずは諸星大二郎、花輪和一、もりもと崇、と結構名前は挙がっていくが、影響を受けた、というところまで深いかどうか。諸星には観念的には相当影響を受けてはいるだろう。生きるということ、というところまで深くなるとちょっとよくわからない。業田良家とかもいいんだけど、あんまり達者になってしまうとどうもちょっと違う感じになってしまう。文学崩れとか、アート崩れの雰囲気がある人のほうが自分には入ってくる感じがするんだなと思う。このへんは多分表現の商業性の問題だ。
もちろん、手塚治虫や石森章太郎、小林よしのりや細野和彦といったいかにもプロという人たちの作品も好きではあるのだが、それはすべて「大衆」に向けてかかれたものである、ということがあまりにも明らかで、「私個人」に向かってかかれている感じがしないから届くものが少ないのだろう。商業マンガというのは圧倒的に大衆に好まれる線、大衆に好まれるストーリー展開、大衆に好まれるコマわりなど、ある意味微に入り細に入り徹底してシェイプされている。その徹底性が強靭さとなって現れていて、作品としては強いが親近性が低い。子供のころはもちろんそうは感じなかったのだけど。
多分私などは、長い間大衆性とか商業性とかいうものとは遠いところにいたんだなと思う。ずっとそういうところで戦ってきた人たちには、そうは映らないと思う。
こういうもの、近藤ようこや伊藤重夫のようなものが自分の原点かというと難しいが、自分が自分でありたいと思い始めた17歳の頃からの、つまり「青の時代」においては原点であったといっていいのだと思う。自分とはどこからどこまでが自分なのか、という問いが多分、いま自分の中にあって、そのことについてずっと自問自答している。自分の中で自分らしかった時期と自分らしくなかった時期がある、というアイデアに取り付かれると容赦ない仕分けに直面する。青春時代から脱皮しようという漠然とした気持ちがおそらくはここ数年、いやもっと長くだろうか、あったのだなと思うけれど、今その気持ちが青春時代の自分の今でも残っている何物かに復讐されているということかもしれない。
自分がほしいものが、見えてきたような、見えてこないような、見えてきたような。(2007.5.1.)
近藤ようこ『水鏡綺譚』読了。とてもよかった。この作品は1988年頃から少しずつ連載されていたのを、2004年にようやく最終回を書いて完成させた、というものだということだ。「得るものと失うものの物語であることは最初から決めていた」と近藤はあとがきで書いているが、分かれるという結末をどう書くか、というのは作者自身にとっても大きな問題だったのだ。しかし、この作品は思いがけず、とてもいい終わり方になっている。作者が苦しんだ分だけ、主人公のワタルと鏡子の苦しみが浄化され、透き通ったものになっているのだと思う。
「私は「作家性」とやらで描いていると誤解されているらしいが、他のマンガ家と同様、好き嫌いだけでやっているわけではないし、描きたいものばかりを描いてきたわけでもない。」と近藤はいう。そう言われてみてはじめて、近藤の必ずしも面白いとは思えなかった作品群の成り立ちについて少し思ってしまったのだが、そりゃそうなんだろうなと思う。しかし「それが唯一、好きで描きたくて喜んで楽しくやっていたのが「水鏡綺譚」だった」のだそうだ。
このマンガは、むかしの二人連れの旅マンガ、「どろろ」とか「カムイ」とか、そういうものの雰囲気がある。ある種そういうオマージュを描くような楽しさが描いていてあったのだろうと思う。
その結末をつけるということは「得るものと失うもの」をはっきりさせると言うことで、つまりは二人の別れが訪れると言うことなのだが、結構のはっきりしたストーリーにはやはり力があると思う。描いているときはロードムービー的な楽しさがあるのだろうけど、力を得ることができるのはやはり定型なのかもしれない。(2007.5.2.)