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絲山秋子『沖で待つ』

沖で待つ

文藝春秋

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昨日。午前中に家を出て、東京駅の丸善で絲山秋子『沖で待つ』(文藝春秋、2006)を買う。月曜日に高校時代からの友人と話していて「これは面白い」と勧められたのだった。収録されているのは「勤労感謝の日」と「沖で待つ」。「勤労感謝の日」は、最初は最近よく『文学界』で見るような文体だなと思いながら読みはじめたのだが、だんだんそういう文体を越えたようなものを感じてくる。それが何なのかはよくわからない。「面白うて、やがて悲しき」という王道のようなものをこの人は行っている。何の王道だろう。ペーソス、といえば子どものころ読んだいろいろな「子どもの失敗」を描いたマンガが思い浮かぶのだが、それはさらに遡れる。そうか、落語だ。落語とか、歌舞伎の世話物の世界。とても日本的な感じがしたのはその辺から来ているのかもしれない。

新宿で特急に乗り込み、『沖で待つ』を読みつづける。

「勤労感謝の日」で印象に残ったのはたとえば職安の描写。「マイナスのパワーに満ちた空気」の中で「私は渋谷で01-01XXXX-06という番号をつけられ「正当な理由のない自己都合退職者」と選別されている。事実、正当な理由などない。」といったくだり。この01-01XXXX-06という番号のリアリティを拾い上げているのが興味深い。クリスマスが大好きな新興住宅地の「上沼町」に対して「上沼町に原発を」という呪詛を投げつけるのも笑ってしまう。「とうの立った総合職の女」を「蚕蛾」に喩えるのはシルクを吐き出す労働を終えて自らは蛾になってしまうというもっと戯画化された「鶴の恩返し」というか変にリアルだ。

お見合いの席を途中で立ってしまったことが在職中、会議中に「こんな下らない会議やってられません!」と怒鳴って出て行った話につながり、「国連脱退の松岡洋右みたいでした、カッコよかったなあ」「いつの時代だよ、四十二対一かよ」というやり取りになるところが個人的に受けた。ラストに飲み屋のマスターが「頼みもしないのにカウンターから出てきて、立て付けの悪い鈍い銀色のサッシの扉を開けてくれた。」という優しさで落とすところが読み手の生理をよく把握している、と思った。

「沖で待つ」はもっと文体は大人しい。細部の描写がもっと生きていて、「径の違った7本セットの星型ドライバー」などというのはリアリティとファンタジーが上手くかみ合っている。「大事なことは明文化する、文書に残したらやばいことは口頭で喋れ、という原理原則」というのもこういうのがリアルなんだよなと思いつつ、そのリアルが生み出すハードボイルドなファンタジーというものもある、と思う。「ルミエール五反田」とか「202号」という言葉も、現代のリアルがどこにあるのかという拾い上げ方を感じるし、ことを成し遂げた主人公が「太っちゃん」の部屋の鍵をコンビニのトイレの、「太っちゃんがさんざんもめた、あの和便と同じセットのBBT-14802Cのロータンクの底」に投げ入れるという強烈なリアリティに泣かされた。

彼女はやはり日常の細部にいる神を呼び出してくる日本的な文芸の呪術の正統的な継承者なのだと思う。そしてそれが現場の描写とともに非常に手際がよい。世の中に膨大に存在するこういう企業人こそが江戸時代の市井にいたような意味での「現代の職人」なのかもしれないと思う。彼女のほかの作品も読んでみようと思う。(9.6.)

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