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小林秀雄『モオツァルト』

モオツァルト・無常という事

新潮社

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昨夜。何か普段読んでいるものと違うものを、と思い、本棚にあった『小林秀雄全作品15 モオツァルト』(新潮社、2003)を手に取る。そういえば実際最近、小林秀雄を読んでいない。「モオツァルト」には交響曲40番の出だしの旋律が記されていたな、と思いながら読み始めると、実はこの小林の代表作の一つを、私はきちんと読み通していないことに気がついた。そう長い作品ではない。じっくり読んでみようと思う。

まずゲーテによるモーツァルト評から話は始まる。ゲーテはモーツァルトの音楽を、人間をからかうために悪魔が発明した音楽だとエッケルマンに語っているのだという。この語りは、当然エッカーマン『ゲーテとの対話』(岩波文庫、1981)所収の話なのだろう。ゲーテがこの若者に語る会話は、いろいろなことを含んでいる。大家の放談というものは、19世紀もいまも面白いものなのだと思う。

小林の語りが、実はゲーテの人間像を非常に深く掘り下げていることに気がつく。いままで小林の文章を読んでいても、かなり表面的なところで反応していたが、実は彼の文章はかなり詩的であり、小説的だ。結局は外面的にしか叙述できない文芸批評というものの限界を、彼は自らが創作者になることによって突破しようとした。そしてその実現の金字塔が、『無常という事』であり『モオツァルト』であるのだが、それがゆえに「科学的な批評」を求める勢力からは疎まれた。現在では、小林の衣鉢を継ぐ批評家はそう多くない。そしてその批評の多くが創作者からはあまり省みられていないことを考えてみると、小林の方法の実行のし難さとその屹立ぶりが激しく目立つ。文芸と言えば小説、それ以外のジャンルはきわめてマイナーな地位に置かれている現代の状況を考えてみると、批評というジャンルに後継者を持たない創造性を発揮した小林という個性の孤独もまた明らかである。

「自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現できない」とモーツァルトは父レオポルドに書いているが、そのことをそのままに小林は受け取っている。モーツァルトの個性の奥底にあるのは言葉ではなく、音なのだ、と。それはわかりそうでわからないことだ。ただ個性の奥底に音がある人間だけが、本当にそれを理解できるのだろう。そして人の個性の奥底にあるものは、必ずしも言葉ではないのだと、職人的なまでに言葉の人間である小林が言う。いや小林の根底にあるものも、ほんとうは言葉ではなかったのかもしれない。その言葉ではないものを養うために、小林は骨董に凝り、また多くの努力を惜しまなかったのだろう。心の奥底にあるものを養うこと。心の奥底にあるマグマを精進によって鍛えること。それが見え、鍛ええたものが天才なのだろう。

「美というものは、現実にある一つの抗しがたい力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遙かに美しくもなく愉快でもないものである。」と小林は言う。昨日はずっと、モーツァルトを聞きながらこの文章を読んでいた。気がついてみると、私はCDを11枚、LPを3枚、持っていた。中でも弦楽五重奏を何枚も持っている。これは、数が少ないからクインテットなら揃えられると思った時期があって、それで何枚も買ったからだ。逆にオペラはほとんどないし、カルテットもほとんどない。そういう偏った揃え方なのだが、たまたまトスカニーニが交響曲の39番、40番、41番を振った1930−40年代の復刻CDを持っていたため、小林の論の展開にはかなりついていくことが出来た。「美とは美しくもなく愉快でもないもの」という言い方は小林独特だが、わかる。それは、やはりモーツァルトの楽曲が明らかに一つの「力」であって、力である以上聞いているわれわれは微妙な抵抗を感じざるを得ないのである。マーラーやベートーヴェンよりも、モーツァルトの力のほうが原初的で、強い。

16歳のとき、モーツァルトは既に「作曲のどんな種類でも考えられるし、真似できる」と父に言ったそうであるが、これは「私は9歳のとき、ラファエロのように描くことが出来た」といったピカソの言葉を思い出す。それを小林は、「天賦の才の重荷」と言い、ゲーテの「天才とは努力しうる才である」という言葉を引用している。 「抵抗物のないところに創造という行為はない。これが芸術における形式の必然性の意味である。」

この言葉はよくわかる。抵抗のないところで想像を行おうと言うことほど難しいことはない。しかし抵抗だらけの身動きの出来ないところで何も出来ないということをいやと言うほど経験する普通人は、なるべく抵抗のないところで動きたいと思う。しかしそれでは創造的な行為は出来ない。「もはや五里霧中の努力しか残されてはいない。努力は五里霧中のものでなければならぬ。努力は計算ではないのだから。」

五里霧中の努力。それに関しては自分もよくわかるのだが、その中でたくさんのものを創造したモーツァルトのことを思うと、やはり天才というものの高みを実感せずにはいられない。

弦楽五重奏第4番の冒頭をtristesse allanteだとゲオンは書き、小林は「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」と書く。「彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。」それが彼の心の奥底にあるものだ、ということなのだろう。心の奥底にあるかなしみに、涙は伴わないだろう。人間存在の本質的な孤独に、人は涙することはない。「ただ孤独なだけ」なのである。

モーツァルトの主題が一息で終わるほど短いとか、交響曲39番の最後の全楽章がささやかな16分音符の不安定な集まりを支点とした梃子の上で、奇蹟のように揺らめくとか、言われてみて気付くことも多い。私が小林の文章の多くを読んだ気になっているのと同様、モーツァルトも聞いた気になっているだけなのだなと反省させられる。

そのほか読み取らなければならないものはまだほかにあるのだが、反芻しなければならないことがたくさんある。このくらいにしておきたい。いちおう読了はしたのだが。(7.18.)

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