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ヘミングウェイ『キリマンジャロの雪』

キリマンジャロの雪

角川書店

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『キリマンジャロの雪』。まだ少ししか読んでいないが、小説は宗教を失い、死生観を持てない近代人の宗教の代替物といっていいのではないかという昨日の仮説が自分の中では証明されつつあるような印象である。小説が文学という宗教の経典であるとしたら、文芸評論がその解釈書、つまり神学ということになろう。大部の解釈書が生まれ、それが理論付けられていくさまは巨大なスコラ学に似ている。

   別の方向から考えると、そういう意味で、表現者は教祖であることを引き受けなければならない、ということになる。(最後まで書いてから思い出したが、坂口安吾が小林秀雄を「教祖の文学」と評したことがあった。しかしもちろん安吾も一人の教祖であろう。)ヘミングウェイもそうだが、たとえば中島みゆきやデーモン小暮、尾崎豊などのことを考えればそのあたりはすぐに納得できるだろう。ヘミングウェイもそうだが、表現者の多くが自殺という自らのせいの決着のつけ方を取るのは、ひとつにはそうした「教祖」であることの重圧、ということもあると思う。ジョン・レノンは殺されたからある種の殉教者となったが、殺されなかったらいつどのように死ぬことになったのかと考えると、あの死にはある種の必然性のようなものも感じてしまう。

   神なき近代の人々の求める理想はあまりに多様で、小さな神たちがそこらじゅうに林立せざるを得ないのだろう。彼らの振る舞いを正統化する神学者たちはあまりに少なく、ふと生まれふと消えていく古事記の最初のころの沢山の名前だけ出てくる神様のような古代性さえ感じられる。

   しかしもともと、神学者は宗教の存在を社会的に正統化するために存在するわけだから、正統化など求めないカルトの信者たちにはどうでもいいことなのだろう。小さな蛸壺規模のカルトが、あちこちに鳴りを潜めているのが現代という時代なのかもしれない。

   ヘミングウェイが巨人という感じがするのは、その教祖としてのカリスマの大きさを意味している。本人がどう意識したかは別として、おそらくは無意識に世界を逃げ回りながら、結果的に自分のカリスマを巨大化させていったのがヘミングウェイの悲劇だったのではないかという気がしなくはない。(7.25.)

   『キリマンジャロの雪』と『日本の戦後』を平行して読書中。ヘミングウェイの文体は非常に簡潔で過不足ない表現、というにふさわしい。「はるか彼方のその高台の丘陵は、じっと目をこらして見ていると消えてしまうが、いいかげんにみていると、ちゃんとそこにあるのだった。」などという描写にはうならされる。こういうことって、感じてもなかなかそうは書けないのだが、こういうことがこういうふうに書けるのが作家なのだなと思う。(7.26.)

   『キリマンジャロの雪』は読みにくいし、すごく面白いというわけでもないのだが、文章、特に小説を書くということに関しては非常に参考になる。"Big Two-Hearted River"は釣りの話だが、押さえた感情表現がなるほどと思わせる。日本の最近の小説などを読んでいてもこんなもの書けないなとしか(という以前に何が面白いのかよくわからない)思えないが、こういうのはいいなと思う。小説偏重の現在の文芸事情を見ると、小説の体裁を取るということは戦略的には意味があると思うし、何かそんなふうに書ければいいなと思う。(7.28.)

   きのうは午前中に家を出て東京駅へ。切符を確保し丸善をのぞき昼食用にカツサンドを買って中央線に乗る。新宿からの特急の中でいくつか本を読む。チャンネルをザッピングするように、少し読んでは他の本に切りかえる、という感じだったが、結局きちんと読んだのはヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」だった。角川文庫の同名の短編集を読んでいて、その最後から2番目に表題作が掲載されているのである。それまでの短編がどれも比較的短いのに対し、「キリマンジャロの雪」は50ページもあって「長い短編」といわれているのだという。

   この小説はいわば愛と死というものをテーマにしたものといってよいと思うが、愛と死とが全然別に存在しているという感じがヘミングウェイの孤独感のようなものが現われていていいと思った。私は小説というものをそうたくさん読んではいないので批評をしても凡百のものになるとは思うが、ちょっと試みてみたいと思う。いや、というより恐らく批評になる前の書き散らしという感じになるだろう。思いつくまま。

   まず第一に、これを読んでヘミングウェイの作品をもっと読みたいと思った、ということを書いておこう。アフリカの狩りで怪我をしたアメリカ人の男が妻の献身的な介護にいろいろと悪態をつきながら過去を回想し、そのいくつかの断片的な回想をそれぞれ小説にするという構想が果たせぬまま死んで行き、今わの際に救出される飛行機の中でキリマンジャロの雪を見る、という幻想を見る、という話であるが、その設定も秀逸だし断片的に語られるいくつかのエピソードもまた酷く魅力的だ。現実の世界での現在の妻とのやり取りも面白いし、その妻についてのさまざまな回想、上流の社交の話などもいい。その一つ一つがすべてもっと大きな話の中心に据えて語れそうでありながら、過不足なくカットバックされて終焉に流れ込んでいく、そういうつくりのうまさにも感動する。

   と、今書きながら思ったが、これは要するにある種の、というか自分が好きな種類の演劇と同じような構成になっていて、その感動のつぼみたいなものに実にうまくぴったりとはまっているということに気がついた。なんというか、正直言って感動して当たり前のような小説なんだな。私にとっては。

   なんというか、構成が明確なところが私にとっては心地いい。小説を読むためには緊張感があったほうがいい場合もあるが、人知れず近づいてくる死というものをテーマにすると、ある種の心地よさのなかで走馬灯のように記憶がフラッシュバックしながら終局に近づいていくという構成が一番ぴったりとはまると思う。こうした構成の明確さは日本の小説にはあまり感じられないもので、恐らくそういうところがあんまり自分が面白いと思わないところなんだろうなと思った。

   しかし、いろいろ読んでみて一番感じるのは、ヘミングウェイという人にはどうも一番根本のところに暗いものがあるということである。彼は昂揚はするが、酔うことはない。何も信じることのできない近代人の、その根本的な暗さが、彼の作品の特徴であるような気がする。神はもちろん、愛も、小説も戦争も革命も政治も金も豊かな生活も冒険ももちろん文学も、本当には信じていない。作家というものは、というより人間というものは、恐らくは今あげた中のどれかは信じていることが多いように思う。ヘミングウェイは何かを信じたくてそれらのすべてを実際にやってみたのだろう。しかし最終的に彼が選んだのは自らの命を絶つことだった。私の生まれる13ヶ月前のことだ。

   アメリカ人というのはそんなものかな、と思うことがある。結構何かを軽薄に信じているような気が本人はしているが、本当には何も信じていないんじゃないかと。つまり、信じるというより、「私はこれを信じているということに自分ではしている」という感じなのである。ヘミングウェイはその欺瞞性に耐えられなかったのだろうなと思う。アメリカ人は強固のようでいて、一人一人を見ると結構いろんな不安を抱えている人が多い。変な思いこみをしている人も多い。彼らが強力なのは、そのよくわからない思いこみを集団で共有することが実に得意だということである。あっという間に一色になる。

   日本人が集団主義でアメリカ人が個人主義だとよくいうが、私は絶対うそだと思っている。ある建前を正しいと信じようということになったとき、その建前への忠実度はアメリカ人の方が絶対的に高いし、はっきり言ってそれに関しては思考停止していて、疑うということもしない。だから集団でそれを思いこんで敵を一気に殲滅することができるのである。日本人はいつまでもその建前が正しいかどうかぐずぐず考えていて、決断を迫られるとけつをまくったり、面倒な人たちだ。従った顔をしていても、心の中では全然従ってなかったりする。もちろんそれが動き出すとだんだんまあいいかという気がしてきてあまりいろいろ言わなくなり、今度は建前が絶対化してきてフレキシブルさを失うという感じがする。つまり、ある物事をやろうというときに、立ちあがりがアメリカ人の集団の方が絶対的に早いし、止める決断も早い、ということである。集団の効用というものをよく知っているのは彼らの方で、我々は集団に属することは嫌いではないけれどもその中で出来るだけ勝手なことをやりたいという志向が強いため、第2次世界大戦などでも現場の暴走で失敗を重ねることになったのだ、と思う。

   話はずれたが、まあ極論を言うとアメリカ人は「偽善によって団結する」のがうまい、ということである。ヘミングウェイはその偽善の部分についに安住できなかったのだという言い方も成り立つだろう。

   しかしまあ、人間というのは本来そういうアメリカ人たちのようなものかもしれないなとも思う。ある種の観念というものを用いるなら、それが人々がまとまるように、行動を起こせるように用いるべきものだろう。そういう使い方はエネルギーを必要とするものだし、やはりそこにはアメリカの文明としての若々しさというようなものを感じる。そんなに宗教心がなくても、日本人の多くはやはり所詮この世は仮の宿り、と思っているような気がする。その中で、集団的に新しいものを構築するのにエネルギーを使うより、個人で出来る細部になるべくこだわろうという傾向が強いのではないか。

   なんだかヘミングウェイとはだいぶ離れた話になってきた。

   文学論でこういう国民性論のような大きな話に話を広げてしまうのはあまりよくないのだと思う、特に日本では。独白の手法はジョイスの影響を受けているようだ、とかそういう話を書いたほうが好まれるのだろうな。

   しかし、結局私が物を読むと、この同じ世界に生まれた人がどんなことを考え、どんなことをして何を大事に思い、生き、そして死んでいったのか、というようなことしか関心がないし、ヘミングウェイという扉の向こうに見えるアメリカ人というもの、実際に我々が付き合わなければならないアメリカ人という人種について考えてしまう性向が私にはある。ジョイスを尊敬してジョイスの影響を受けた、という話もまあ興味の湧かない話ではないが、そういう話を聞くのはともかく自分で書きたいとは思わない。

   私自身が集団の中に安住できるタイプの人間ではないので、集団と個人という問題については常に考えている、ということもあろう。結局国家論や靖国論、ナショナリズム論、安全保障論などに話がいっても、自分自身に常につきつけられ、自分自身に常につきつけて考えているのは、いつもそのテーマなのだと思う。

   以前筒井康隆の『文学部唯野教授』や『フェミニズム殺人事件』を読んで、「文学というのはつまりは観念の遊びだ」、という考えに至ったのだが、遊ぶならもっと他のところで遊んだ方が楽しいよなあという気が私はする。

   なんだかはっきりしなくなってきた。文学論は難しい。(8.3.)

   『キリマンジャロの雪』、ようやく全一冊読了。最後の短編は「フランシス・マコンバーの短い幸福な生涯」。アメリカ人の金持ちのコキュとその浮気な妻、恐らくはイギリス人の職業狩猟家がアフリカで狩をする。マコンバーはライオンを前に恐怖心から逃げ出し、妻マーゴットは愛想を尽かして同じテントで狩猟家ウィルソンと浮気する。どうやらこの妻はマコンバーの財産のために離婚しないだけで、何度も同じことを繰り返しているようだ。しかし水牛を撃ちに出かけたとき予定外の自動車の爆走によって水牛を追跡することになり、その興奮の中でマコンバーは恐怖心を克服する。恐れずに水牛に立ち向かう夫と狩猟家を見た妻は「一人前」の男になった夫に恐れを抱く。マコンバーは恐れずに水牛に立ち向かうが、銃は何度も急所をはずし、ついに水牛にのしかかれる。狩猟家と妻は銃を放つ。妻が撃ちぬいたのは水牛ではなく夫の頭だった。それは錯誤か故意か。

   題名の意味するところは、勇気を持った男として生まれ変わったマコンバーが短い充実した生を突然一発の銃弾によってたたれたこと、といってよいと思うが、解説を見るとこれはアイロニカルな表現ということになっているけれども、単にアイロニーだけでなく、その短い期間マコンバーは幸福であったと思う。それを女が殺すのは、恐れのゆえか無理解のゆえか、いずれにしてもそこに「愛」が介在していたら違う結論に達したと想像される。

   しかし、考えてみると本当にそうかどうかはわからない。そこに愛があっても、女は男を撃ち殺したかもしれない。相手が自分の理解を超えた人間になったとき、自分のコントロールのきかない人間になったと感じたとき、そこに殺意のようなものを感じるということはありえないことではない、と思う。いずれ、男というものと女というものとの間にある種の絶対的な「溝」というものが存在することを否定できないので、こうしたことが絵空事にならないのだろうと思う。

   この小説は一人一人の人間のティピカルな部分がよく書けていると思う。マーゴットの悪女性というものに注目が集まっているようだが、恐怖心を克服し勇気を持つことが出来るようになるまでの過程というのは、人間にとってある重要な過程であることは確かだろう。アイロニカルな結末を迎えるがそれはひとつの成長過程の描写でもある。「いかなる勇者も必ず三度はライオンにおびやかされる−はじめて足跡を見たとき、はじめて咆える声を聞いたとき、はじめて面と向かい合ったとき」という「ソマリ人の諺」を引用していることからも、作者はただ臆病な人間としてマコンバーを描写しようというのではなく、彼がいずれ「勇者」となることを暗示している。

   しかし彼が勇者として永らえず、妻に撃たれるという結末に終わったのは、結局は水牛の急所をはずす、つまり技量的な不足から不幸を招いたということになる。人として生きるためには勇気も必要だが技術も必要だという教訓が、まあ当たり前のことだが出てくる。恐らく、勇気を持つことによってそれまでとは違った技量がまた必要になる、といってもよいことだし、狩という場面でなくてもある局面において心が決まったとき、今まで必要と思っていた以上の技術が必要になるということは、我々自身も経験するところではある。まあこのあたりも「読み」出したらいろいろなものを汲み取ることが出来るかもしれない。そういうことが出来る作品はやはり名作・佳作といってよいのだろう。

   また職業狩猟家のある種のニヒリズムとプロ意識のようなものも面白いが、なんかこんなやつばっかりだったら嫌な世の中だな、と思うヤツである。実際、現代でもこの種の人は多い。(2005.8.4.)

  

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