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福田歓一『近代の政治思想』
近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提岩波書店このアイテムの詳細を見る 昨日は特段外出しなかった。『オシムの言葉』を読んで、後は本棚の整理をしたり今調べている分野の本を参考文献のデータベースに打ち込んだり。どのくらいだろう、結局200冊くらいにはなるのだろうか。自分の持っている本の中身をきちんと把握するだけで相当しっかりした見解を持てるようになるなと当たり前のことながら思った。結局国家とか社会とかを構成するその基本となる「考え方」、つまり社会契約論とか国体論とかそういうものが自分の中でうまく折り合いがついていなかったから物が見えないという意識が強かったのだなと思う。そうした考え方というのはいわばすべて人工物、架空のものであって、ある意味では現実面での有効性しかその選択の基準はないのだと現実主義的に割り切ってみるとものがはっきり見える気がする。おそらくマキャベリとかが「見えた」感じがしたのもこういうことなんだろうなと思う。
で、昔から読もうと思ってどうも読めなかった福田歓一『近代の政治思想』とか丸山真男『日本の思想』、カー『歴史とは何か』、レーニン『帝国主義論』なんてものを読みかけている。それぞれ古いといえば古い感じはあるのだが、自分が成長した時期がやはり戦後民主主義の真っ只中であったから、こういうものたちを批判的に位置づけることが出来ないとやはりだめだなと思う。で、なんだか読んでいて楽しいし、ああいまではこういう説は(左翼の立場からも)否定されるだろうな、なんてものも見つけるとそっち方面の思想傾向の変化のようなものも理解できて奥行きがでてくる。こういう分野は結局結構好きなんだなと思う。(7.25.)
特急の中では主に福田歓一『近代の政治思想』(岩波新書、1970)を読む。そういえばこれは高校のときの世界史の先生に勧められた本である気がする。26年目にしてようやく読んでいるということになるか。私はその気になるまで時間がかかるということは往々にしてあることなのだが、26年はちょっと長い。
内容的には、啓蒙時代にいたる思想史的な背景を説明する「一 中世政治思想解体の諸相」「二 近代政治思想の現実的前提」の二章については、非常にわかりやすく、よく整理されているし、また構想も雄大で読んでいて気持ちがいい。現在の研究成果からすれば古いところもあるが、それを差し置いてもよく出来ていると思う。しかし、「三 近代政治思想の原理的構成」になるとどうも納得の行かないところが多い。なぜ人権思想が大事なのか、なぜ重視されるようになったのか、というテーマについて、社会が「個人」の集合体と考えられるようになったから個人のもつ「自由」が積極的な意味を持つようになった、という説明で、中世的世界像が転換し「個人の存在」の重視をもたらした、というのだが、それだけではどうも納得しにくい。いずれにしても、社会は「自然」でなく「人間」に属するからいかようにも変更可能だし、あらかじめあたえられたものでなくその時の構成員がいつでも変更を加えてよい、ということがポイントだと思われる。
このあたりはヴィーコとは全く逆で、ヴィーコは自然には科学的な「真実」があるが、人間社会には「本当らしい」ものしかない。人間はその「本当らしい」ものをそう簡単に変えてはいけない、という主張になる。ヴィーコは徹底的に反デカルトなので、全然折り合えないが、このあたりを読みながら私はヴィーコを読んだ時の感動を思い出していた。
もう一つ、ホッブズやロックのいう「自然状態」というのが歴史的な実在とはまったく無縁な思考実験だということが確認出来たのは良かった。あらゆる権力関係、身分関係、そういう社会関係がない状態を想定する、というのは思考実験でしかないのだが、そうなると「万人の万人に対する戦い」になるというホッブズも「勤勉かつ理性的」な人間は富の総量を増加させることにより争いを避けるというロックも、まあその思考に共鳴する人がどれだけいるか、というところから話は始まるわけで、つまりはイデオロギーである。
いずれにしてもまだ読了してない。しかしこのあたりが人権思想とか民主主義といかいうものが生まれてきた奥の院、秘儀的な部分であることは間違いないと思う。そのあたりのところがもう少し理解できるようになるといいなと思う。(7.26.)
『近代の政治思想』読了。ルソーの部分を読んだが、今までルソーの思想でよくわからなかった部分が少し結びついたような気がする。この本を読んで最も強く思ったのは、福田の考えは必ずしも賛成できない部分が多いのだが、しかし自分のまわりの多くの人々が実に福田の考え、あるいは福田に代表される思想、つまりそれがいわゆる「戦後民主主義」というものだと思うのだが、に強い影響を受けていて、世界認識の仕方から行動パターンまで、こういう思想に基づいてそれが血肉化して動いているのだということだ。それはある意味面白いことなのだが、深刻なことでもある。
福田の思想は簡単に言えば「自然状態」において権力を捨象して考えることによって、権力という非人間的に見えるものが生身の一人一人の人間によって担われているということを過度に強調している。エンタープライズの乗組員に呼びかけた小田実や反戦デモ鎮圧の兵士に花を差し出した女を称揚しているのはある意味笑ってしまうが、つまりそこには「同じ人間だ、話せばわかる」という思想が貫徹しているわけである。最終的に人間的に一人一人に対する議論に持ち込まなければ相手の思想や行動を変えることが出来ないことなど当然だが、それに過度な期待をかけるのもやはりナイーブだというべきだろう。そしてその「話せばわかる」人間観が持つ弊害というものに、多くの戦後民主主義者は無頓着だ。その態度もまた一つの傲慢であるということを自覚していればいいのだが、なかなかそうは行かない。
また近代国家を「革命の制度化」と規定し、そうした国家においては「憲法という機構をそれ自体信仰の対象にしようとする努力」が行われている、と書いているのは先日読んだ大塚秀志の発言を思い出した。この表現自体はおそらく、社会主義国において社会主義国家体制自体を「信仰の対象」にしたりアメリカにおいてアメリカ民主主義を「信仰の対象」にしたりすることを指しているのだろう。だから日本においても権力者は日本国憲法を「信仰の対象」にして当然だ、という含みがあるのだが、馬鹿げている。
福田も言っているように、憲法は革命を制度化したものであるわけだから、革命を担った主体がその憲法の制度化を図るのはある意味当然で、名誉革命を担った国教会勢力が「権利の章典」を聖典化しようとしたり、独立革命を成し遂げた勢力が合衆国憲法を聖典化しようとするのは当然である。しかし、日本国憲法にはあまりに「出生の事情」がありすぎるわけで、事実においてGHQに押し付けられたものであることを否定する人はいないだろう。それを「帝国議会」が「明治憲法」の規定に基づいて可決したことによって「発効」したわけだが、芦田修正をはじめ数々の修正が加えられたとは言え、それが「敗者の抵抗」であったことは明らかだ。日本国憲法は日本の権力機構が勝者に「飲まされた」ものであって自らが希望に燃えて作り上げた国家体制に対して作り上げる主体になった勢力は存在しない。その主体になった勢力こそが憲法を維持する原動力になるはずなのだが、日本にはそういう勢力は存在しないわけである。草案を作成したのがアメリカの若い兵隊たちなのであるから。
憲法が革命の制度化であるならば、革命を担った勢力とそれを継承しようとする勢力が護憲勢力なのである。そのあたりは明治憲法においてもややねじれた関係になっていたが、日本国憲法においてはそのねじれは回復不可能なほど大きい。何しろ憲法作成を担った勢力が外国人なのだから。しかし、一般にはその憲法に実際熱狂的に賛同した人びとも一定数はいたわけで、現在の「護憲」勢力はそういう人びとの末裔だろう。つまり憲法作成に主体的に関わった記憶がないままあたえられたものを「良いものは良い」と受け入れた人々である。しかしこのような不完全な主体性で、憲法及びそれが表現したとされている幻の「革命」を継承することが出来るとは思えない。ありえるのは、「憲法」及び「革命」をひたすら「信仰する」ことによって守ろうとすることだけだろう。そして戦後の歴史はその不自然な形を再生産しつづけた歴史だとも言える。
福田の主張に同意は出来ないが、そういう意味で、日本が現在に至る迄なぜかくも深き思想的分裂・混迷状況に陥っているのか、それを探る手がかりとしては非常に面白い一冊であった。しかし今だからそう思うが、20歳前に読んでいても何がなんだかわからなかったのはあたりまえだなあという気がする。(7.27.)