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三浦展『下流社会』
下流社会 新たな階層集団の出現光文社このアイテムの詳細を見る 夕食後少しドイツ語をやり、『下流社会』を読み始める。アンケート項目の統計数字の羅列の部分が多く、その部分はかなり飛ばし読み。ちょっと外れかなと思う。女性の階層を上昇志向と職業志向の二つの座標軸を取って図化し、お嫁系・ミリオネーゼ系・かまやつ女(手に職)系・ギャル系と分類し、中央に普通のOL系と分類している。そういえばおたく系がないがどんなもんだろう。男性の階層分類は同様の軸でヤンエグ系・ロハス系・SPA!系・フリーター系と分析している。ロハスとはLifestyle Of Health and Sustainabilityの略だそうでなんだか地球に優しい感じだが、要するに非出世志向のインテリ層ということのようだ。この四つの中では私などもこれに近く分類されるのだろうなあと思うがまあある意味鼻持ちならないタイプという感じではある。
まあこうした分類を始め、要はマーケット屋さんが書いた階層論だな、と感じた。要するに、客層をどのように絞ってどのターゲットにどういう商品開発をしたらいいか、という発想が根本にあり、それに問題意識っぽいものをちりばめて商品化した本、と言うことだ。社会学者や教育学者が書く本とはその辺が根本的に違う。だからいいとか悪いとか言うことではなく、そういうバイアスがかかっているものだと思って読めば期待もし過ぎないし消費欲望から見ればそういうふうにとらえられるのねという感じである。
ただ指摘の内容として興味深いしその通りだと思ったのは、『団塊の世代』では「自分らしさを大事にする」ことが社会的に上の階層に属する人に強く、団塊ジュニア世代では下の階層に多いということである。これは「自分らしさ」という概念が団塊の時代に上で起こった志向であり、それが何世代かを経るうちに下のほうにまで普及してきた、と筆者は分析をしている。私はこれに関しては、団塊の世代においては「自分らしさ」という概念というか信仰というか神話は、積極的に常識を打ち破り今までにないことをするためにそれを正当化する理念として使われていたのが、団塊ジュニア以下においては何事においても無気力で社会に参戦していかないことを正当化するための言い訳として使われているということではないかと思った。下の階層ほど『自分らしさ神話』にとらわれていると言うのはアメリカンドリームをなんとなく信じ込まされているアメリカの下層階級ともイメージ的に重なるものがある。
団塊ジュニアの女性の上層に「国際的に通用する子どもに育てたい」という希望が多いというのもちょっと引っかかるものがある。国際的に通用するといっても結局は英語が出来るとかアメリカに留学させるとか言うことを指しているのなら、要するに植民地型の知識人になって貰いたいということで、もうこれ以上そういう人は要らんと私などは思う。日本文化の基本をきちんと身につけ、外国人とも伍して日本の美意識や主張や国益を主張できる明治や大正のインテリたちのような人々を育てるというのなら大賛成なのだが。
日本も結局、アメリカと同じように上位4分の1で全体の4分の3の国富を稼ぐような国になりつつあると筆者はいい、またこれもまたアメリカと同じように上の人たちは夜も寝ずに働き、下の人たちは歌って踊って毎日を楽しく過ごす国になりつつあるという。極論だと思わなくもないが、そのような「下流階級」が増えつつあるということはたぶん事実だと思う。 そうした下流階級に社会的上昇のチャンスを与えるために筆者は親の所得によって東大の入試に所得の低い学生には下駄をはかせる、アファーマティブアクションを行うことを提案しているが、これにはあまり賛成できない。「東大生のレベル」というのは、社会が違っているから一概に比較は出来ないが、やはり低下していると見てよいのだと思うし、アファーマティブアクションというのは必然的にそのレベルをより低下させることを結果すると思う。そうすると、結局は「頭脳流出」が高校・大学段階から促進され、東大出身よりアイビーリーグ出身の方が幅を利かす、という更なる屋上屋を架す階層化が出現するだけで、より植民地的な社会構成が強化されるだけになるのではないかという気がする。
まあ、マーケッター的な分析で全てが把握できるほど階層化の問題は単純ではないと思う。消費性向だけでなく、もっとさまざまな側面から現状をしっかり把握する調査が必要だと思う。有田芳生氏がタリウム少女や酒鬼薔薇少年について「幻想型非行」(11月3日の日記参照)という分析をなさっているが、「自分らしさ神話」の行き着く果てが自分の隠された攻撃性・嗜虐性をまじまじと見つめてしまった彼らの「自分らしさの表現」として行われたのではないかという気がする。「自分らしい」ことが客観的に見て本人の幸福につながっていない点で、同じ病を病んでいるように思う。
結局は、人間を各方面から分析する学問や手法は発達したが、全的な存在として人間をとらえる「人間学」のようなものがあまりにも未発達であることに問題があるのかもしれない。あまりに細分化した医学が身体を適正に把握しにくくなっている感があるのと同様、機械的人間科学の行き着く先がこうしたことにつながっているのではないか。 前近代では、たとえば仏教の「修行」のシステムや、商家などにおける丁稚「奉公」のシステムなどがこうした全体的な人間性を育てるシステムとして機能していたと思う。今後考えられ組み立てられるべきそうした人間学的な体系がそうしたさまざまな伝統に依拠して組み立てられるべきかどうかについては議論が予想されるが、そうした意味での文化遺産もまた評価し直されてもいいのではないかと思う。(2005.11.6.)