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青山七恵『ひとり日和』
ひとり日和青山 七恵河出書房新社このアイテムの詳細を見る 青山七恵『ひとり日和』をどこで借りればいいかと考えあぐね、東京都公立図書館横断検索をしてみたら文藝春秋の3月号がヒットし、そうか考えてみれば芥川賞作品は文藝春秋に載るんだし、その前に文芸5誌のどれか(文学界、新潮、文藝、すばる、群像)に載る訳だから、そのバックナンバーを調べればいいのだと思い当たる。江東区立図書館の検索をすると江東図書館が貸し出し可になっている。早速出かけて借り出すことができた。何しろ単行本は19冊すべてが貸し出し中で予約件数が194件なのだ。雑誌の方は10冊所蔵で貸し出し中は7件だった。こういうことがあることを覚えておかなければ。
青山七恵『ひとり日和』読了。
読み終わったときの印象はふんわりしたもので、あまり心に残った感じがしなかった。後でいろいろ考えてみたのだが、わりあい近くにいるのだけど何を考えているのかよくわからない女の子、という印象の作品だったなと思う。
印象に残るのは、主人公が軽い盗癖というか、人の物を失敬する・くすねる癖があるということだ。誰かの物を盗むというのは誰かの気を引く、たとえば子どもがおねしょをすることによって親の気を引くという無意識の行為を思い出させる。そこにつまり、主人公の20歳の女の子の「幼さ」が集約されていると言えばいいのかもしれない。物を盗むのはその人の気を引こうとすることであるから、その人への執着をあらわしているのだけど、その執着も軽いものである意味子どもの冷淡さというものの表現かもしれない。自分自身が子どものころ、人にいえないいたずらをしていたことを思い出し、「幼さ」というのはそういうものだなと思った。それが二十歳の女性にあると言うのがちょっと意外は意外なんだけど、ステロタイプだと今の若い人が子どもっぽいのだということになりそうだが、どの時代にも幼い人はいるのだし、その自意識を理解できる人が作家になったということなんだろうと思う。あまりいい意味でなく「子どもであり続ける」ということなんだろう。それは『グランド・フィナーレ』の幼児性愛者などの心理にもある意味通じるものなんだろうと思う。
もう一つの印象は、簡単に寝るということ。それは幼さの裏返しでもあるのかもしれないが、あまり分かったようなことを言えない。関係はあると思う。簡単に、というのはそんなに恋愛感情がないのに、ということもあるし、手続きが簡略化されているというか、寝てから好きになる、みたいなパターンとでも言うか。この辺まあそういう子は実際たくさんいるだろうと思うんだけど、あんまり自分にとってリアリティがない。私にとっては、30歳になって初めて寝た、という大道珠貴『しょっぱいドライブ』の主人公の方がリアリティを感じる。友達の娘の話など聞いてもとにかくセックスの経験がないということは重荷に感じることのようだし、まあ集合的な性的倫理観というものは変動するものだとしか言いようがない。
なんというか、私は自分が生に執着するタイプだから、20年前には少なくとも男に対してモノを要求する際にかなり女性の武器であった性交渉というものを利用しようという気構えが現代の女性にあまり強くないということが何だか不思議だということなんだろうと思う。そういう手段に頼らないということがフェミニズムの倫理の気構えだとしたらそれは成功していると思うが、幼児性愛者の「勘違い」などもそれが助長している面もあろうし、それを利用する男を甘やかしているという面もあるように思う。つまりは性の自由競争化ということか。当然それは資源の一極集中を生み、男も女も持てる者はより一層持ち、持たざるものはより一層持たなくなるだろう。性的倫理や結婚制度などはある意味それを緩和する面もあったと思うのだが、一度規制緩和がなされると歯止めは利かなくなるというのもグローバリズムの生む格差社会というものかもしれない。
登場人物のテンションの低さ、緩さというのもやはり不思議だ。でも盗癖などに現れるようにこの主人公にはユルい熱さみたいなものがあるし、まあそのアンビバレントなところ、モラトリアムなフリーター的感性、見たいなものが何だかものめずらしい感じがないわけではない。
最終的になるほどこういう小説なんだ、と思ったのは「誰かが可か不可か教えてくれなければ、いつまでも不安なのだ」というところだ。セックスをしてもまず考えるのは、「こうすればいいんだっけ」ということで、人との付き合い方もそういうふうに考える。なんというか気まずい大人になれない時期の「忘れたい記憶」みたいなものを描いているのだろう。つまり、「若者のかっこ悪さ」を描いているのだ、といえば一番いいかもしれない。
同居していた老人女性の家を出るときに「吟子さん。外の世界って、厳しいんだろうね。あたしなんか、すぐ落ちこぼれちゃうんだろうね」と不安を口にする主人公に、吟子さんは「世界に外も中もないのよ。この世は一つしかないでしょ」という。この言葉はいい言葉だと思うし、多分作者はこの言葉を書くためにここまで書いてきたのだろうと思う。中も外も、自分で作っているだけなんだ、ということに気がついたときに、その人にとって多分世界が一つになるんだろう。世界の中と外を分けることこそが、「若者のかっこ悪さ」の根源だし、またかっこよさの根源でもある。つまり若者のかっこよさというのもまた、勘違いしたかっこ悪さの裏返しだということがわかる。
この小説を村上龍と石原慎太郎が口を揃えて誉めているのが面白い。一体どこがよかったかというと、つまりは線路脇の袋小路にある家の庭から見える駅のホーム、という設定がいいらしい。ある意味閉じた世界から駅のホームという世界への通路のようなものが見えるということが「中」から「外」を見ている主人公の心象をよく表現していると言うことだろうか。何だか結構普通の発想のような気もするのだが、あまり電車に乗りそうもない村上や石原には新鮮なのかなと思ったり、そういうオーソドックスなところが評価されたということなのかなと考えて見たり。多分、私がそういう情景をあまりにナチュラルに想像出来てしまうためにその情景に緊張感を感じられなすぎるということがあるのではないかと思う。感覚的な部分になると新鮮味とかの感じ方にかなりの差が出てしまうのは仕方がないんだろうな。それだと「文学の世界性」みたいなものとはちょっと遠くなりすぎるとは思うのだけど。(2007.7.17.)