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カズオ・イシグロ『日の名残り』

日の名残り

早川書房

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一寸先のことが分からなくなって途方に暮れ、呻吟していたが、とりあえずカズオ・イシグロを読もうと思い、町に出かける。駅前の本屋で探したが、考えてみれば出版社も知らない。大手町に出て丸の内の丸善の検索機で検索してみたら早川書房のepi文庫と言うのに入っているということが分かった。早川といえばSFとミステリーだと思っていたので一寸意外だが、文庫のコーナーでカズオ・イシグロ/土屋政雄訳『日の名残り』(ハヤカワepi文庫、2001)を購入。執事の話というのは知っていたが、館の新しい主人がアメリカ人になった、という話だとは知らなかった。苺のケーキが食べたくなったので喫茶店をいくつか探すが見当たらず、東京駅の八重洲口のほうに歩いて、千疋屋の小さなティールームに行き当たり、ショートケーキと紅茶を頼む。小さな店であまり落ち着かないこともあってケーキを食べたらすぐ出た。(4.18.)

電車の中ではずっとイシグロ『日の名残り』を読む。読み進めば読み進むほど、これは珠玉のような小説だ、と思う。執事としての自信と誇りに満ちた過去。思いがけない旅行の途時、主人公スティーブンスは過去を振り返る。執事とはどういうものか、どうあるべきものか、というのを読んでいるうち、私は日本の「武士」を思い出した。主人に忠誠を尽くし、自らの仕事に誇りをもって使える執事は、最良の意味での日本の江戸時代の武士に似ている。武士の職責は番方・役方・近侍役の三つがあるが、軍職である番方、行政職である役方に対して、主君に日常的に奉仕する近侍役の重要性は現代にはあまり認識されていない。しかし、侍が「さぶらう」という言葉が語源である以上、武辺と官僚的実務的才能だけが忠誠のすべてであるということには成り得ない。執事は徹底的に近侍であると同時にその屋敷の膨大な仕事を宰領する実務的才能が必要であり、また時には主人と屋敷を守る役目を果たさなければならないこともある。(『日の名残り』の虎のエピソードなど)ああ、執事とは「さむらい」なのだ、と非常に納得したし、この作品が日本で評判のいい理由もわかった気がした。

正直言って、近来これだけ感動した作品は他にない。執事としての彼の転機は二回あり、それは彼の主人の大事と彼自身のプライヴェートの大事がシンクロして現れる。一度目の転機、父の死の時は彼は自分の職務を優先し、そのことを父もまた祝福するという確信を持ち、また信頼すべき同僚「ミス・ケントン」の共感も得、自分の行動が正しいことをいささかも疑わなかった。二度目の転機、ミス・ケントンの結婚のとき、彼は主人の大事を優先し、ミス・ケントンのさまざまな無言の訴えに耳を塞いだ。主人が誤った方向を選択しているのに彼はそれからも目を逸らした。どちらも、そこに「選択」があったのに、それを見ようとしなかったことを旅の終わりに彼は気づき、悔恨の涙を流す。

イシグロの描写には「取り返しのつかない人生の失敗」に対する温かい柔らかな視線があり、それがこの作品に生命を吹き込んでいる。私はスティーブンスには、心の底から共感する何かがある。それは私もまた「取り返しのつかない人生の失敗」によって、30代から40代のかなり長い時間を棒に振ったという思いがあるからだ。若いころの失敗はいくらでも取り返せる。しかし、30代を過ぎてからの失敗は、重い。特に、そこに選択があることにさえ気がつかなかった、あるいはそれから目を逸らしていた場合には。

主義信条は違うが、この作品は『大麦入りのチキンスープ』(作者の名前は度忘れした)と同じことを描いている。青春の夢と希望のすべてを託した共産主義が、「ハンガリー動乱」の共産主義の現実によって踏みにじられ、多くの同志が去っていく中、「それでも私はコミュニストだ!」と叫ぶ年老いた女性。あるいは、何度も書いているがキューバのカストロの「私はマルクスと一緒に地獄に落ちるだろう」という言葉。『日の名残り』の言葉でいえば、取り返しのつかない人生の失敗をしたときに、その人間の「品格」が現れるのだろう。そう考えると私自身がどんなに未熟で至らない人間であるかがまざまざと理解されるのであるが。

蛇足だが、巻末の丸谷才一の解説が不愉快だ。説教調でなおかつ取り返しのつかない人生の失敗に対する共感も同情もない。イシグロの英文学史の中での位置付けの仕方などはなるほどと思うのに。

これも書いておこうか。この作品は「二人称の文学」だと思った。主人公スティーブンスの旅行記のような形で話が進むが、スティーブンスは三人称であることに徹する一人称とでも言うべき存在で、スティーブンス自身の口からスティーブンス自身の感情が語られることは決定的な場面をのぞいてほとんどない。そしてもちろんこれも決定的な場面であるのだが、重要なことは二人称で、つまりスティーブンスに話し掛ける相手の口から語られる。そして読んでいるうちに、作者は読者自身も二人称の存在として読むことに参加することを要求していることに気がつくのだ。文体の鮮やかさ。優れた翻訳。

これもついでに。ナチスというのはヨーロッパにおいては政治的なテーマであるだけでなく、文学的なテーマでもある、と解釈すべきなのだなと思った。言葉を換えて言えば、「孤独」が文学のテーマであることを止めることはおそらくここしばらくはないだろうということと同じように、あるいは「恋愛」や「欲望」がテーマであることをやめることは考えにくいのと同じように、「ナチス」もまたヨーロッパの文学においてはしばらくはテーマであることを止めないものなのだと思った。それだけ「ナチス」というものは、イシグロも言っているように、ヨーロッパ文明そのもののかなり根源的なところに近いものがある。そしてそれを憎む人たちも、それが極端に言えば西欧文明的な人間自体が抱え込んでいる暗黒(あるいは光輝)と切り離せないものであることを十分承知していて、それが悪であることを常に確認することが避けられない厄介な存在なのである。これは彼らの文学における、ある種の義務なのだろう。おそらく同じように共産主義をテーマにする義務も、多くの国、多くの民族で負わされているのだろうと思う。それに切り込んだ作品はナチスほどはないが、それはまだこれからの話だということなのだろう。

振り返って日本のことを考えてみると、日本では「戦争」というもの自体がそういうものとして扱われているような気がする。しかし、どうも何だか的外れであることが多く、堂々巡りするばかりになっているように思う。それは結局、日本人が、今の日本人も昔の日本人も含めて、戦争、あるいは近代戦争というものが何であるかということをあまりにも理解が不足したまま現実に直面せざるを得なかったからではないかという気がする。何千年も戦争の歴史を積み重ねてきた例えばヨーロッパ人の戦争理解と、高々19世紀後半から20世紀前半にかけてのきわめて限定された経験しかもたない日本人の戦争理解とでは差があって当然なのだが、そういうことすら十分認識されていない気がする。わずか数十年の戦争経験で、まるで「日本人は戦争のプロだった」と思い込んでいるようだ。そしてそれはもちろん全く間違っている。戦争について語られた文学や記録は膨大なのだが、「だめだからだめだ」という以上のメッセージに到達したものはいったい存在しているのだろうか。そういうところに何か日本の不幸の源のひとつが――あるいは日本文学の枯渇の原因のひとつが――あるように思えてならない。

何だか思いがけず長大になってしまったが、『日の名残り』は私個人の内面的感動と言う点では最近のベストワンだ。美しさ、という点ではもっと勝るものはあるにしても。(4.19.)

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