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植田 祐次 訳編『フランス妖精民話集』
このシリーズの『フランス妖精民話集』というのが読みたくなり、ネットで調べたらいくつかあった。文庫本自体は絶版(社会思想社は廃業)になっているので新刊では買えない。あるのはオンデマンド出版と電子ブック。アマゾンのマーケットプレイスに古本ででていたので、けっきょくそれで注文した。まあこういうふうにして、アマゾンが売れることになるんだろうなあ。
私は民話とか伝説とかが好きで、いろいろな国や地域のものもけっこう読んでいる。もともと本が好きになったのは、子どものころに寝床の中で母が読み聞かせていた『世界の面白い話』とか『世界のほら吹き話』などのシリーズに熱中したことで、自分でもそれが読みたい一心で字を覚えた。だいたい母のほうが早く寝てしまうので、自分で先を読んだりしていた。そういう話というのは前後の脈絡なく不思議なことが起こったりするので、どうもそういう世界観が自分に身についてしまっているらしい。『オーラの泉』とかに違和感がないのもそのせいかもしれないし、諸星大二郎とかが好きなのもそういうことと関係あるのかもしれない。
多分子どものころには分からなかったけど、フランスの民話というのは、仙女が出てきたり女王が出てきたり羊飼いがでてきたり、何だかおしゃれだ。東欧や日本の民話、インディアンの伝説なども好きだけど、このおフランスな感じがとてもいい。
こういう世界というのが、私の本来のフィールドなのかもしれないな。どうなるかわからないが、そういうのをちょっと追求してみるのもいいかもしれない。ブログのおもちゃ箱化はもっと進みそうだ。(2007.5.6.)
昨夜東京の自宅に帰ってきたらポストに『フランス妖精民話集』(社会思想社教養文庫、1981)が届いていた。今日は出かけたので電車の中でそれを読んだが、『フランス幻想民話集』よりハッピーエンドの話が多くて、そういう意味では読みやすい。変身譚や異種婚姻譚に属する話が多く、雌猪だの二十日鼠だのに変身させられたお姫様と王子様が結婚したり、あんまり小さいので「小指の童女」と呼ばれるおしゃべりで歌のうまいお姫様が出てきたり、バラエティに富んでいる。中でも呪いをかけられて平原の真ん中で未完成の歌を歌い続ける小人たちに、歌の続きを作ってやる少女、というパターンは初めて読んで、とても面白く感じた。(5.12.)
『フランス妖精民話集』を読みつづけている。この本は面白い。並行して『イタリア民話集』と『フランス幻想民話集』も読んでいるが、王さまや王女さま、魔法使いや魔女など昔話のアイテムがちゃんと登場してくることと、どの話もまずまずハッピーエンドであることが、読んでいて嫌な気持ちにならず読み進めることができるポイントなのだと思う。
この本は27の民話を「変身譚」「愛」「嫉妬」「試練」「不思議な動物」「妖精」「プシュケ神話」の7つのカテゴリに分けて収録してある。今は「試練」の二つ目、「王女マリ」まで読了した。最近読んだものについて簡単な感想及びコメントを。
「愛」の三つ目、「真珠の涙」。これは以前も書いたが、「主を称える頌歌」を完成させるまで、ヒースの野原で真夜中から夜明けまで踊り歌うように呪われた小人たちを助けるため、幾夜にも渡って少女が歌の文句を付け加えてあげる、という設定が幻想的で素敵だと思う。呪いをかけられる、ということのロマンチシズム。その呪いが、美しいもの、素晴らしいものを作り上げることによって解けるというのは、なんて素晴らしい設定なんだろうと思う。
以下は「嫉妬」のカテゴリ。
「マウリチェッラと三つのりんご」。美しく心もきれいな娘と醜い娘、そしてその母(美しい娘には継母)、という設定の話。この設定は多い。どの話でも、醜い娘の母の策謀を打ち破って美しい娘が幸せになる、というパターン。そのための小道具が、この話ではりんごになっていて、りんごが変身した雄鶏に美しい娘は救われる。白雪姫でもそうだが、りんごというのは魔法のくだものであるらしい。そして民話の味わいも、甘酸っぱいりんごにふさわしい感じがする。
「手のない少女」。これは設定としてかなり残酷な話だが、こどもを思う気持ちが神に通じて失った手が蘇るという奇蹟が起こる。娘を探しに来た若者が子供に出会い、腕を取り戻した娘と再会するお話が読んでいて嬉しい。失ったものを取り戻すことの喜びが主題といえるかもしれない。
「青い鳥」。これも美しい娘と醜い娘とその母、というパタン。美しい娘は継母の度重なるしうちにもそのつど幸せをつかみなおすが、最後には青い鳥にされてしまう。しかし青い鳥が幾夜も館を訪れて真実を告げ、人間に戻って幸せをつかむ。美しい娘が頭に留め針を打たれて青い鳥にされてしまうという設定が美しい。こうしていくつも並べて読んでみると、さまざまな呪いのかけられ方が目くるめくスペクタクルに思われてくる。
「試練」のカテゴリに関してはまたまとめて書きたい。(5.17.)
『フランス妖精民話集』を読みつづけている。「試練」のカテゴリの四つの話を読み終わった。
昔話や民話、神話の中には主人公が試練を与えられる話がよく出てくる。「〜したら願いをかなえる」「〜したら呪いが解ける」といったパターンだ。いろいろ無理難題を吹きかけられてそれをみごと解決していく主人公の活躍に、小さいころの私は感動していたんだな、と思う。そしてそんなふうに雄々しく難問に立ち向かい、みごとに解決していくことに憧れた。大人になって、現実社会の問題は、民話に出てくるようなわかりやすい問題ではなく、何が問題なのかわからないということからはじまる問題ばかりで、立ち向かったり解決したりしていくことがなかなか出来ないことが多いのだけど。しかしそういう人間に憧れた自分を思い出すことは、なんだか心が躍る。
「ばら色の水の泉」。他の話もそうだが、この民話集の中にはコルシカ島の話が多い。コルシカというのは純然とフランスとはいいにくい。イタリアっぽくもあり、またコルシカの独自性もあるように感じる。しかしフランス的なものも多いことも事実だ。しかし地中海的な、都会的な雰囲気の話が多いのは、北フランスやブルターニュとは趣が違う。
父の病を癒す「ばら色の水の泉」を探しに行く三人の息子たち。かぎとなる人物に出会ったときに、ていねいに対応した一番末の息子だけが泉での困難を乗り越える知恵を授けられる。死者をも蘇らせる泉の水を手に入れた息子は帰り着いた数日前に亡くなった父を蘇らせる。この水が多くの不治の病人を治したため、この息子が生きている間は「一人として死ぬものがなかった」、という突飛さがおかしい。この息子が死んだときはもう水が使い果たされていたわけだ。
「王女マリ」これもコルシカの話だが、筋立てはようするに「リア王」だ。違うのは城を追い出された三女が長く苦難の旅を続け、死んだロバの毛皮をまとって自らの美しさを見せないようにして山羊飼いとして働いたところを王子に見初められる、という部分である。
そこで苦難が語られるためだろう、最後は王子は上の二人の娘を倒して気が狂った老王を助け出し、盛大な婚礼が行われてハッピーエンドになる。これをハッピーエンドにしなかったのがシェイクスピアの近代性なんだなと思う。
「黄金牛の貴人」これが一番好きだ。すべての人に気前よくふるまう貴人が没落したとき、助けたのは貴人の財産を横領して一財産築いた「黒衣の従者」だけだった。彼は貴人が没落し、気前よくしたすべての人が彼を見捨てることを見越して、貴人を迎えるために財産を築いたのだった。「黄金牛の貴人」は「黒衣の従者」に深く感謝し、秘密を打ち明ける。
「<黒衣の従者>よ、私はもしその気になっていれば、とうに以前よりはるかに金持ちになっていただろう。だが、私とおまえを除けば、この世は下種(げす)な人間しか住んでいない。だから、私はもう友人を求めないことにした。<黒衣の従者>よ、私は年老いた。一年後に私の亡骸は地下に眠っているだろう。この世を旅立つ前に、私はおまえにフルートの作り方と曲の吹き方を教えておきたい。……」
「私とおまえを除けば、この世は下種(げす)な人間しか住んでいない。」という断定が盛り上がるし、死の渕に臨んで言い伝えることがフルートの吹き方だということもいいなあと思う。まるで古今伝授だ。
しかしフルートを作るためにはある試練が与えられる。フルートを作るためには長い葦の生い茂る沼地の、一番長い葦を切り倒さなければならない。しかし貴人は「葦は懸命に抵抗するに違いない。葦は三度その姿を変え、実在しないものをおまえに見せるはずだ。気にせず仕事を続けるがいい。三度だけ叩けばよいことを頭に入れておくことだ。」という。<黒衣の従者が>その言葉に従い葦を切り倒そうとすると、葦は大蛇に姿を変える。<黒衣の従者>は恐れずに最初の打撃を加える。次に葦は、洗礼前の幼児に姿を変える。<黒衣の従者>は恐れずに二度目の打撃を加える。
しかし次に、葦は<黒衣の従者>の死んだ恋人に姿を変えるのだ。それを見ると<黒衣の従者>は「木の葉のように震え始めた。」しかし貴人の言葉を思い出し、ついに三度目の打撃を加えてフルートを作る葦を手に入れるのだ。
こういう「試練」こそが本当の「試練」だよなあ、と思う。一番大切にしているものの思い出を断ち切ることはほんとうに難しい。しかしそれが出来なければ前に進むことは出来ない。多分こどものころなら読んでもこの試練の意味がほんとうにはわからなかったと思う。民話というのは本当は大人向けのものなのだと思う。
こうして手に入れたフルートを吹くと、地下から7頭の黄金の牛が現れ、その乳を搾るとそれがすべて金貨に変わる。なんというかお金がロマンチックなものに見えるところがこの話のいいところだなあと思う。
結局<黒衣の従者>は大金を手に入れて「黄金牛の貴人」を裏切った人々に罰を与えるが、この大金で修道院を立て、「黄金牛の貴人」の魂のために神に祈りを捧げる。「この世で下種でないただ二つの魂」の友情の物語なのだなあと思う。これはガスコーニュの話。
「七足の鉄の靴と三本の木の棒」。これが試練としては一番凄い。「もっと高く上れ」という不思議な声に誘われて山の上に登った少女は石にされた王子を生身に戻すために「七足の鉄の靴と三本の木の棒」を与えられ、鉄の靴がすべて磨り減り、木の棒が扉をたたきすぎて磨り減るまで戻ってきてはならない、という試練を与えられる。しかしその試練で世界を駆け回っている途中で少女を助ける不思議な老人、不思議な農民、不思議な隠者に出会ってそれぞれ魔法を持った梨、くるみ、アーモンドを授けられる。その力で石にされた王子の父王に出会うことができ、父王を王子が幽閉されている山の麓に連れて行き、すべての靴をすり減らした少女はついに王子の呪いを解いて父王との再会を果たさせる。
こうしてみると、ヨーロッパの民話は少女に試練が与えられる話が多い。その中でもこの話の試練は想像するだに滅茶苦茶だが。それでもちゃんとやり遂げてしまうところがすごいな。関係あるかどうかはわからないが、「妹力」という言葉を思い出した。あれ、これもコルシカ島の民話だ。アーモンドとか梨とか、確かに地中海的ではある。
最後に王はこういう。「息子よ、この娘はおまえを救うために世界をめぐり歩いてくれた。だから、この娘と夫婦になってその苦労に報いるのが当然ではないか」
それに対し、物語はこう続く。「王の息子は願ったり叶ったりだった。それというのも、カタリネッラはとても美しかったからだ。」いきなり願ったり叶ったりなところがおかしいし、それまで容貌について全然語られてなかった少女がいきなり「とても美しい」ことになったりしているところがいい。なんていうか、性格とか容貌とかの定義が結構適当というか、その人間の人格とかとあまり不可分に結びついている感じがなく、融通無碍なところが面白いと思う。
「黄金牛の貴人」にしても、すごい魔法を使えるのに施しを受ける人たちの本性について全然わかってなかったり、黒衣の従者も後に貴人を助けるためとはいえ平気で横領したりするところが可笑しいと思う。人物像の形成に、あまり緻密さがないところがこういう民話とかの魅力なんだなと思う。
しかし人間って、実際には結構そういうものなんじゃないのかな、と私は思うんだよな… そのあたりが私が近代的なセンスが欠けるところなんだけど。
現代劇ではそういう性格の一貫性みたいなものの喪失というか欠落というものがまたひとつのテーマになったりするわけだけど、現代劇だとどうもそういうのがわざとらしいというか、あえて不条理を強調するみたいな仕立てになっている。おそらく、民話のような筋立てではあまりにご都合主義だ、と思うのだろうけど、しかし実際には、人間の性質と言うのはある意味ご都合主義で変化するところもあると思うんだよな。
だから、「ご都合主義の面白さ」のようなものを表現できる作品が書けるといいのにな、と思う。コメディではそういうのは書けるかもしれないけど、もっとロマンティックなものでご都合主義的な面白さが書けるときっとそれは私の好みだと思う。(5.18.)
『フランス妖精民話集』続き。「不思議な動物」カテゴリ。全体的に短い。
「黒猫」。ほぼ1ページ。短いが怖い。諸星大二郎のマンガに出てきそうな黒猫。諸星だとそんなに怖いと思わないのに民話だと怖く感じるのは、表現方法に慣れていないせいだろう。怖いと思う話を久しぶりに読んだ。
というか、実際には「怖い」という感じを持ちながら話を読んでいることはあるのだろうと思う。ただ、それを「こわいなあ」と自覚していないだけなのだな、という気がした。なんとなく不快だ、と思うだけで怖いのだ、と自覚しないのはもったいないと思う。
「雌羊」。これも短い。短くてシュールだ。間違ったものがえらくかけ離れていてシュールな印象を持つことは落語などでもあるが、そんな感じに似ている。
「狼のミサ」。これも基本的には怖いな。始まりの段落にその怖さがすべて現れている。
狼は他のけものたちに似ている。狼には魂がない。狼にとっては、死の瞬間にすべてが終わる。けれども、毎年一度だけ同じ地方の狼が一堂に会してミサを聞きにやってくるのだ。このミサは、どこで覚えたのか分からないが、狼=司祭が取り行った。狼=司祭は、聖シルヴェストルの祝日に当たる一年の最後の日の真夜中に、祭壇にのぼる。噂によれば、狼=司教や狼=大司教や狼=教皇もいるという。しかし誰もその狼たちを見た者はなかった。狼=司祭についていうなら、問題は別だ。
「狼には魂がない。」この言葉は怖い。どうしてヨーロッパの民話で狼が常に悪者になっているのか、分かった気がした。『ナルニア』シリーズの『カスピアン王子のつのぶえ』にも狼が出てくるが、あの場面は怖い。ちょっと足がすくむような感じがある。しかしこれは、けだものとしての狼の怖さだけでなく、アナロジーでも怖い。この世には魂のない人間が満ち溢れていて、それは狼のようなものなのだ。そんな人間が普通の人間と同じような顔をして街を歩き、あるいはブログを書いている。少し話をしたり、少しブログを読んだりするだけではそれが狼であるかどうかは分からない。しかし狼は確実にいて、彼らのミサを執り行っているのだ。
「十三匹の蝿」。「仕事の手伝いをしてくれる動物」シリーズ。この蝿たちがいつも仕事のやる気に満ち溢れていて、「ブンブン、仕事はどこだ」といっているのが可笑しい。働き蝿というのはさすがに奇抜で、見たことがない。
「妖精」カテゴリ。これは何だかいい話が多い。
「双子と二人の妖精」。約束を破ってしまったために幸福が失われる話。それにしても、超自然のものに対する約束は守らなければいけないのだなと思う。本来人間に対する約束も守るべきなのだが。
「マリと三つのオレンジ」。この話は好きだ。オレンジの中から出てくる妖精と勝負をして、三回目に勝つことによって幸せを手に入れる。幸せとかがシンプルな形で現されていていいなあと思う。
「魔法の指輪」。試練を果たせずに山羊にされてしまった兄たちを、妹が救いに行く話。妹力。性悪な妖精を倒して兄たちを救い出すが山羊の姿から戻すことが出来ない。妖精の着ていたシャツに書かれていた文句を唱えると、山羊が元の兄に戻る。
シャツよ、シャツよ、死ぬまで
私の望みどおりになれこの言葉は好きだ。シャツよ、シャツよ、か。シャツにはやはり何か魔力があるのだなと思う。『部屋とワイシャツと私』という曲があったが、あれも何だか魔法をかけている曲の感があった。
兄たちを救い出し、金持ちになった娘は、けっきょくこのシャツがあまりに汚いので洗濯してしまう。しかし乾かしていたら浮浪者に盗まれてしまい、娘は絶望して死ぬし、兄たちは泥棒を追っかけたまま帰ってこなかった。ハッピーエンドと思いきや、最後にどんでん返しが起こるところが民話の怖いところだ。
「黄金の指輪」。知恵と勇気のある三番目の息子が病にかかった姫を救って結婚する話。この話には二つの試練がある。一つ目は、姫を治す真っ赤なオレンジを持って帰ること。兄たちはオレンジをオレンジでないと言ったために失敗し、王に処刑される。弟はオレンジを持ち帰り、姫を治すことには成功するが、姫と結婚させることが惜しくなった王は弟にあらたな試練を与える。その試練を果たした弟はめでたく姫と結婚する。
これは、結婚には二つの試練があることを暗示している。一つ目は社会的に成功すること、二つ目は父親に認められることだ。そんなふうに考えて読んでいたら妙にリアリティがあって可笑しかった。
『フランス妖精民話集』。「プシュケ神話」のカテゴリ。異類との婚姻、ということか。 「鍋男」。尻にいつも鍋をつけている男との婚姻。夜は鍋を取っている、とつい言ってしまったために、素裸で十字路の十字架の下に立ち、異形のものたちに話しかけなければならないという試練を与えられる。その試練をやり遂げ、幸せになる。アプレイウス『黄金のろば』に出て来るエロースとプシュケーの物語の形式。プシュケーが不完全で、なおかつ美しい娘であることが共感を呼ぶのだろう。そういう意味でやや近代的でもある。
「マルグリットの国」。猿の顔をして生まれた王子と結婚する娘。娘は王子の本当の美しい顔を見てしまい、王子はマルグリットの国へ去る。娘は苦労を重ねてマルグリットの国へたどりつき、王子と再会する。鍵のたとえ。古い鍵をなくしてしまったと思って新しい鍵を作ったら古い鍵が出てきた。どちらを使うべきか、という問い。みなが古い鍵を使うべきだといったためにマルグリットの国の姫と結婚が決められていた王子は晴れて娘を改めて選ぶ。
「信義の人イウァン・ケルメヌー」。冒険小説だな。借財のために死に犬に食われていた男をイウァンは救い、ちゃんと葬礼をやらせてやる。その後の危機を、イウァンはこの男に救ってもらうが、そのときに財産を半分渡す、と約束する。何もかもうまく行ったイウァンのところへ男がやってきて大切な宝である彼の息子の体の半分をよこせ、という。嘆き悲しむがイウァンは約束を果たそうとする。男はその覚悟に感じそれをやめさせ、昇天していく。旧約聖書の、神がアブラハムに息子イサクを犠牲に差し出せと命じた話を思い出した。
このカテゴリは三つとも少し手が込んでいる。ブルターニュとノルマンディの話で、やや幻想性が強いといえるかもしれない。出て来る海も、北の海の淋しい荒れた感じだ。
『フランス妖精民話集』、以上で読了。民話の原点のような話が多くて読んでいて楽しい。下手に新しい小説よりも、こうした作品の中に新しいものにつながるインスピレーションが隠れているのではないかという気がした。(5.20.)