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会田雄次『アーロン収容所』
アーロン収容所中央公論社このアイテムの詳細を見る 会田雄次『アーロン収容所』(中公文庫)を読了。この本はビルマ戦線で終戦後捕虜になり(終戦後の捕虜は戦争継続中の捕虜と違い、「被武装解除軍人」といわれたらしい。我々には違いはわかりにくいが、現場の人たちにとってはどうやら天と地ほどの差があるようである)、イギリス軍の捕虜収容所に2年余り抑留された筆者の、彼の言葉を借りていえば「異常な体験」を書いた本である。
この本の内容はいろいろなところで語られているし、そういう先入観からどうも読むのを怖気づいていた点もあるのだけど、前半は確かに読み進むのに抵抗を感じるところもままあったが、後半は面白くて一気に読んでしまった。
イギリスという国はアメリカなどに比べるとよい国、少なくともましな国として描かれることが多いが、これを読んでいるとまあ国というのはそれぞれだ、と思う。特にイギリス人兵士や将校は日本人を同じ人間とみなしていないという感じはよくわかった。
女性将校の部屋を掃除させられたりすることがあるのだそうだが、ノックをしてはいけないのだという。ノックをして入室するということは中にいる側も身支度を整えねばならぬから、なのだそうだ。筆者がそうして入室すると全裸で髪をとかしていたりねっころがっている女性が何人もいて、でも何にも気にしないのだそうだ。またイギリス人将校がビルマ人の夜の女を何人もはべらせてことに及んでいるときに、同じ室内で警備させられたりすることもあったらしく、ビルマ人のほうは気にして恥ずかしがったりしてもイギリス人は何にも気にしないのだという。
筆者の解釈によればそれは人間と動物の境界線を常に引いているキリスト教文化の一つの現われで、人間でないと見なしたものに対しては何をやってもいいという思想の一つの現象だということのようである。確かにそう解釈しないと人種差別とこちらが思うようなことをしても彼らが何の良心の呵責も感じていないという事実を説明できないだろう。
自分に置き換えて考えてみてもセックスしているときに人にみられるというのはあまり考えたくないが、みているのが(その場にいるのが)動物だったらどうだろうか。まあ人にもよるし趣味もそれぞれだろうからわからないけど、そういうときに必ず猫を室外に追い出すとは限らないような気がする。
同じ人間だったら差別する側も緊張感があるが、人間でないものを人間と「区別」することには何の緊張もないのだろうと思う。
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戦場のこととは全く違うが、私がリュックを担いでヨーロッパを旅行し、パリに泊まったとき、何の予約もなかったのでどうにかなるかと思ってカルチェラタンに行って安そうなホテルに泊まったときがあった。フロントの人はこちらが英語で話し掛けるのがものすごく不愉快そうで、ものすごいぞんざいな扱いだったのだが、次の日の朝も朝食はどこかと聞いたら「There!」と怒鳴られた。そこに行って萎縮しながらクロワッサンとカフェオレの朝食を取ったのだが、同じ東洋人ぽい風貌の人がごちゃごちゃと小さい声で女の子に話し掛けると、「ウィ ムッシュー。ウィ ムッシュー!」である。
しかしどういうわけだかそのクロワッサンとカフェオレはひどく美味しく、今でも覚えているのである。いま考えてみると、それは「差別」という味付けが加えられているせいかもしれない、と思ったのだった。なんともほろ苦い隠し味である。
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しかし同じ「アーロン収容所」にはこういうエピソードもある。日本人の将校が若いイギリス人将校と話していて、(そのイギリス人はアメリカ帰りだったそうで、多分そういう意味で開けていたのだろう)「日本は戦争をして悪いことをした。これからは仲良くやろう」といったのだそうだ。そうするとそのイギリス人将校は顔色を変えて、「君たちも君たちの正義のために戦ったのだろう。負けたからといってそれを否定するのは奴隷のやることだ。我々の戦友が奴隷と戦って死んだとは思いたくない。名誉ある日本のサムライと戦って勝ったことを誇りにしているのだ。そういう情けないことはいうな」といったのだそうだ。 このエピソードは小林よしのりの『戦争論』にも引用されているが、姿勢を正される思いがする。筆者も、その励まそうとする姿勢に対する感謝とともに、勝者におもねろうとする敗者の心理を見抜かれたことにものすごい屈辱感を感じたという。
確かにそれは、ある意味で現在の日本人にも通じるところのある心理だという気がした。
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ずいぶん長くなったが、もう一つだけ書いておくと、終戦後に捕虜として抑留されたことに日本兵の多くは理不尽なものを強く感じていたという。しかし、日本人に対する扱いに抗議すると、英軍の側からは、戦時中同じ事を日本軍はした、といわれるのだという。それが本当のことかどうかは分からないが、本当のことでなくても日本人だったら引き下がってしまうような気がする。
そうなると理不尽な強制労働に対して復讐の気持ちが湧いてくる。で、実際に何をしたかというと労働中にイギリス軍の物資を台無しにしたり、盗んだりしたのだそうだ。そう書くといかにもいじこいが、復讐だと思ってやると泥棒くらいは何の悪いこととも思えないということは読んでいてよく分かった。
もちろん検査はあるのだけど、器用なものがいるもので、収容所では本格的な演劇が開かれて、衣装も装置もほとんどどこかから(もちろんイギリス軍の倉庫だろう)持ってきたものを器用に細工して本格的な舞台を仕立て上げたという話のところは面白くて仕方がなかった。まさに痛快、という感じである。軍中には歌舞伎の字を書く職人から上野の音楽学校(つまり芸大)のピアノの先生までいたそうで、そういう場面はむしろ楽しげでさえある。
最も筆者は、この辺については戦友に、楽しげに書きすぎているといわれたそうだ。筆者もそれは、自分たちの体験をあまり悲惨に書くことに羞恥を感じた、ということを言っている。しかし戦場や捕虜体験について恐ろしいものとばかり思っている私などからすると、一部とはいえそういう面があったことは戦場の真実を知るには非常に役に立ったと思う。
この場面に関連して思ったことは、自分たちが理不尽な抑圧を受けていると感じている人は、抑圧をしていると感じる側に多少のひどいことをしても何の悪いことをしたとも思わないということである。それは自分が教員をしているときに疑問に思っていたことなのだけど、暴れる生徒の中には明らかにそういうふうに思っているのがいるということがこの本を読んでいてはじめて納得がいった。
私は理不尽なことをしたとは思っていなくても向うがそう思うことはあるわけで、それが反抗という形でかえってくることはあるのだ。暴力でしかその反抗を表現できない人間もいるわけだから、どんな形でも相手に納得させるということがなければ暴力というものはなくならないのである。
それをなくすには、暴力以外の反抗の形態を見つけさせるか、すべてのことを完全に納得させて反抗そのものを無くさせるかしかない。もちろんその両方とも、容易なことでない。ただそれが分かれば、解決の方向は与えられたということになるだろう。
思ったよりたくさんの収穫があった本だった。(2002.1.14.)